I-shingakujuku/kyouhon
| 自覚のすすめ 目次 |
自覚のすすめ
自覚と洗脳
寄生虫のサガ
自分のことをタナに上げるについて
人のふり見て我がふり直せについて
哲学と宗教
評価する基準
素直な言葉
学校で習ったこと
条件あっての答
現実での反応
反省のすすめ
ゆとりのすすめ
良心というもの
かさぶたはハテナの母
しつけについて
環境というもの
考える機会
再び、しつけについて
教育について
母親の自覚
オスについて
幸せ者の条件
自覚の原点
幸せの性格
歴史のお勉強
数学のお勉強
これからの流れ
学校で習ったこと
ボクは、学校で習ったことというのはほとんど覚えていませんね。覚えているものといえば、先生が脱線して話した言葉ばかりです。
たとえば、ボクはルートの開き方を知っています。こんなことを言っても、若い人はまったくピンとこないと思うんですね。ルートなんてものは丸暗記するものだと思っているんじゃないでしょうか。ところが、これは計算の仕方があるんです。
これを教えてくれたのは理科の先生でした。そのときの先生っていうのも熱心だったわけですけど、そのときのボクも必至になってノートに写していましたね。ほかの生徒はそんなことはしません。なぜか分かりますね。テストに出ないことに対しては冷たい態度をとるんです。この先生は人気のない先生でしたから、優秀だといわれるような生徒は、先生、授業の方を進めてください。なんて、言いたくてガマンしてたかもしれませんね。たぶん、同じ授業を受けたはずのクラスメイトでルートの開けるのはボクだけでしょうね。
中1のときの英語の先生がボクに教えてくれた言葉があります。
丸暗記がニガ手なもんだから、単語がまったく覚えられない。テストで答えが想像できても単語のつづりがでてこないから、問題用紙の中にそれらしき単語はないかって探しているうちに時間切れ、そんな感じだったんです。ところがボクのころの中1英語というのは、それほどのボキャブラリーが必要ではなかったもんですから、まあまあの点数は取れていたんです。
ある日、授業でなんだったか忘れちゃったんですけど、これが分からない者、と言われて正直に手を上げたんです。ボクのほかに数人しかいない。当時は40人クラスでした。英語の先生はボクの英語の点数から想像して、半分怒ったような口調で言ったんですね。
「そんなはずはない!」
そして、
「中村、ドンテラーライ、言ってみろ」
ボクはわかんないけど口まねしたんです。何回も言わされました。そして覚えちゃったんですね。そして最後に、嘘をつくな、ドンテラーライ。と、先生は言ったんです。
このときは、ボクにとってただのカタカナのドンテラーライだったんですけど、学校を辞めて英語に興味をもってからでも覚えていまして、これが Don't tell a lie.であることが分かったんです。
まぁ以上は、なんとなく学校の勉強のうちに入るものだと思うんですが、ボクが学校で学んだものはそういうものとはちょっと違っていますね。
中2のときの英語の先生というのが、アーとかウーとかンーとか、よく言う人だったんです。ボクはこれがおもしろくて何回言ったかをチェックしたんです。そして、今日はアーを8回、ウーを6回、ンーを5回言った。なんて、仲間に発表したんですね。これがウケちゃって、いつのまにか何人かが担当を決めて数えるようになっていたんです。そんなある日、ん?を3連チャンでかましたことがありましてね。数えてる仲間は一斉に笑いましたね。
そんな先生が、どういう話から脱線しちゃったのかは忘れましたけど、ルールというものを語りだしちゃったんです。
ある学校では校則がない。廊下は静かに歩きなさい。とか『右側通行』とかいう貼り紙もない。制服すらない。でも、人に迷惑をかけるような生徒は一人もいない。規則があるということは、なにをするか分からないヤツがいるからで、規則がなくてもみんなが安心して過ごせる方がすばらしいんだ。こんなようなことをのたまっちゃったんです。
愛知県の教育委員会というのは、いい意味でも悪い意味でもガンバッているほうなんです。ですから、髪の長さとか、スカートの長さとかコマカクうるさいんです。ところが、この先生はこんなことを口走っちゃったんですね。こんなことはよっぽどなにも考えない大バカ者でないかぎり聞き手を信頼してなきゃ言えませんよね。もっとも聞き手の大半は脱線した話ですから右から左でしたでしょうがね。でも、このときのボクの目は輝いていたんじゃないかな。
ボクはハタチのころ、本を作ったんです。そのときに『決まりの数だけ裏がある』という文章を書いています。
これは、このアーウー先生の放った言葉が頭にとどまっていたんですね。ボクはビビッときた言葉を頭の中で泳がせておくんです。そして、根ッコのところまで掘り下げていき、根ッコのところまでたどり着いたとき、その言葉を消化した。と、言っているつもりなんですけど、ボクの頭は、この消化した言葉だけしか残らないようなんです。ですから、その背景の部分はほとんどぼやけているわけですし、忘れられない言葉として書いてある部分も、いつのまにか意訳された状態で残っているんです。
そういう頭の構造になっている都合上丸覚えがニガ手なんでしょうね。だから本能として、暗記教育に反発したのではないか。今思うと、そんなふうに思うんです。反発というのはそういうものですからね。理由は後から考えてでてくるんです。そのときは、気にいらねえって感情だけなんです。
人間の脳はモノゴトを体系的にとらえるようにできています。いろんな情報というか刺激を受けつつ成長していきますね。その情報がつながってくる。つながったとき、分かったという喜びがあります。
しかし、それ以上に気づいてほしいのは、つながっていない状態というのが、人間にとってかなり良くないようだぞ。ということです。不安定な状態なんですね。不安定な状態というのは不安を感じるんです。そういうものなんです。ここらで、目的をもった人は輝いて見える。という文を思い出していただけるとボクはうれしいですね。
タトエ話です。
大きな木があります。先っぽがアンテナです。そこで情報をキャッチします。アンテナは無数にでてる。これがだんだんつながってきて枝になり、その枝もまたつながって大きな枝になります。
狭いとらえ方でストップしたパラノイアというのは枝の部分なんですね。木全体から見れば一部なんですけど、小さな枝がいくつかはつながっているわけで、この時点でつながったという喜びもあるわけですし、自分が今までに受けた情報がかなりつながったわけですから、ヨシッ幹まで来たぞ。と思い込むこともできるんですね。
思いたい、という作用も働きます。そこで他の部分をネジ曲げちゃうんです。信じないとか、見えないことにして狭く生きてしまうんですね。不安定な状態がイヤなんです。だから幹まできていようがなんだろうが、もう幹まで来たんだ。と思い込むことによって安心してしまいたいんです。
狭いとらえ方でストップしてしまいやすいというのはこういうことなんです。
条件あっての答
つながるだとか不安定だとか、ボクの頭の中でのコトバ遊びのようで、なんだか恐縮です。
たとえばこういうことです。
料理にうるさそうな人が、米はシッカリ研ぎなさい。洗うんじゃなく研ぐんです。と言う。一方医学に詳しそうな人が、お米はさっと洗うぐらいの方が栄養があっていいんです。と言う。どっちが本当なんだ。と、隣りのおっちゃんに聞く。まぁ、人それぞれ好みってもんがあるからなぁ。反対隣のメガネのにいちゃんに聞く。限度ってものがあるんじゃないかな、シッカリといっても限度があるだろうし、サッといっても最低のラインがあるってことじゃないかな。じゃあ、どこまで洗ったらいいの。
お米は研げば研ぐほどおいしくなります。そして、栄養分は落ちていく。味を選べばとことん研げばいいし、栄養を考えたらゴミを落す程度に洗えばいいんですね。
ところが、今の教育になれてしまった人というのは○か×かで判断していますから、研いだ方がウマイと言われれば、研いだ方がいいんだ。と、頭の中に入り、研がないほうが栄養があっていいと言われれば、研がない方がいい。と、受け取ってしまうんですね。しかも、答がひとつでないと落ち着きませんから、世の中は矛盾ばかりだ。なんて言ってうっちゃっとくんです。ボクはこのことを憂うれうんです。
たとえば、オラァ医者がキライなんだ。医者がなんと言おうがオラァ米は研ぐもんだって教えられて生きてきたんだ。いまさらハイそうですかって変えられるかい!といって一生過ごしたっていいんです。料理をとやかく言うヤツなんでどうもムシが好かねえ。サッと洗うだけでいいって言ってんだからそれでいいじゃねえか。これで一生過ごしたっていいんです。
江戸時代なんてのは、副食なんてロクになかったころですから、田舎で玄米を食べてるころは何ともないのに、江戸へでてきて白米を食べるようになったらビタミンB1の不足でカッケになった。なんて話を司馬遼太郎さんの本の中のどれかで読んだ記憶がありますが、今の日本ではそんな心配もないでしょうからね。
世の中にはいろんな情報が飛び交っています。学校の勉強のような安易な答があふれています。しかし、その答には条件があるんですね。その条件が自分の欲するものなのかどうか。そこのところをシッカリと見極める必要がありますね。
自分の欲するものが見極められず、あっちこっちに振り回されて一生を終える。それもいいかもしれません。人間というのは、目前のものに目がいくようにできていますから、振り回される一生もまた楽しいものだともいえます。
しかし、楽しめていますか。ボクの目には、これが楽しいってことなんだろうか、そんな思いを抱きながら必至な血相で流れを追っている、という姿に映るんです。これは、流行についていけないボクのヒガミなんでしょうか。
現実での反応
ヒガミを『広辞苑』で引いてみますと、ひがむこと。なんてあるんですね。オイオイッて感じですけど、こういう表現でかなり稼いでますよね、ジッサイ。
さて、そこでヒガムですが、ねじける。ひねくれる。かたよる。まがる。とあります。ボクは、この件につきましては、ちょっと不服ですね。
みなさん、けなるい。というコトバは日常ではお使いになりませんか。ボクの育った豊橋という市は、昔の国名でいえば三河の中に入ります。ちなみにそのころは吉田といっていました。ボクは子供のころ、日常的に使っていたような気がします。三河弁なんでしょうか。うらやましい。という意味だ。と『広辞苑』にもあるんですが、細かくいえば、うらやましがる。という感じで使っていました。
ボクは、先のヒガムはけなるい(うらやましがる)から発展したねじけた感情だととらえているんです。人間というのは、無い物ねだりをするものでして、くどいのはいただけませんが、ただうらやましがってるぶんならカワイイものなんですね。いいなぁ、でおわってるわけですからね。
自分ができないことを他人がしたとき、わぁステキとか、おっスゲエと思えるのは素直なんです。へっ、どうせオレなんかとか、くそっ、ウマイことやりゃあがってと思えるというのはヒガミとか、ネタミといった自分のオモワクが加わった感情ですね。
ボクはプライドが高いもんですから、非常にヒガミっぽい。実力がないのにプライドばかりが高いもんだから人の評価が気に入らないわけです。ところが向上心がないもんですからネタムということとはちょっと縁遠いようなんですね。人の喜びが本当に喜べちゃうんです。ただ、ひけらかすようなヤツだと、鼻を折ってやりたくなりますね。
このように人の心というのは反応し合うようにできています。この反応が常に素直な反応であれば、世の中は穏やかなものになるように思うのですが、なかなかそっちの方にはいかないようで、ヒガミだとかネタミといった反応のしかたになることが多いようですね。このあたりがおもしろいところです。
パラノイアの世界では、理想というものが成り立ちますが、現実というのはすべてが何らかのかかわりをもってつながっているわけで、無垢な反応というものが成り立つことがないんですね。
つながりが強ければ強いほど反応は激しくなり、近すぎれば過敏になり見えなくもなります。違う分野でがんばっている知人が評価された場合は喜べるのに、ライバルが評価された場合は気に入らなくなるんですね。逆に我が子だったりしたら反則があったとしても目には入らなくなってしまう。人間というのはそういうものなんです。罪ではないんです。近くのモノを正確にとらえにくいというサガがあるのです。
ヤッカイなことに自覚というのは切っても切り離せない自分を正確にとらえるということなんですね。いまさらながら、たいへんな試みを提案してしまったような気がしてきました。
反省のすすめ
切っても切り離せない自分、どうやって距離をおきましょうか。
こんなのはどうでしょう。時間という距離をおく。
なんのことはない。これを世間では反省といっているんですね。反省というのは悔いること、ではないんです。時間という距離をおいて自分のやったことを冷製に見つめ直してみるということなんですね。あぁチキショウ、あのヤローこのヤローって感情にしがみついたままではできないんです。とにかく、そのときの自分と切り離した状態がいいわけですね。
とまぁコトバで言ってしまえば簡単なんですけど、なかなかできるもんじゃありませんね。ボクなんか根にもつタイプですから、なかなかカラッと切り替えられない。だから、こんなことネチネチといつまでも書き綴っているんでしょうね。
なんの話でしたっけ?
そう、自分とどうやって距離をおくか、ですね。
時間が解決する、というコトバがあります。これを文字どおり時間が直接解決してくれる。と、受け取らないほうがいいでしょうね。時間自体はナニもしてくれません。その間に自分の興味が変わっているということです。時間が経つことによって、その時にしがみついていた感情が知らないうちに消えているということです。ですから、ふりかえってみると冷静に見られるんですね。
人間というのは生きています。生きている、というのはゼロじゃないんです。方向性をもって動いているんですね。動いているものというのを止める場合、相当なチカラがいります。惰性というものがあるんですね。人間も同じです。なだらかな方向転換をさせてもらえればスムーズにいくんですけど、摩擦を生じるような止め方なり方向転換には反動が起こるものなんです。これが感情です。
冷静になって考えてみれば、その方がイイなぁ。と思えることでも、そのときは気に入らないんです。水をさされた気分になるんです、。動いているものというのは、油をさしてほしいものなんです。でも、第三者は、これじゃ火に油を注ぐようなもんだ。と判断したわけですね。
「そこのところが納得いかない!」
このときの納得いかない。というのは、どう考えたってそういう結論にはならないじゃないか。ということではなく、イキオイのあまり感情が現われて冷静に考えられないというだけのことですね。
そのときの感情を忘れるための時間というのは好きなことをするのがいいですね。一般にいう気分転換でいいわけです。ちゃんとそういう知恵は身につけているわけです。
ただ、ちょっと、ボクがおもしろいな。と思ってみているのは、好きなことをして忘れるという方法を愛するあまり、忘れっぱなしにしているんじゃないかな。と思えるところです。反省するにあたって、そのときの感情を持ち越さないための気分転換だったはずなんですけど、反省することまで忘れているんですね。こういう場合、同じ失敗を繰り返します。
それでもいいんですけどね。一応、この文章は自覚のすすめですから、ボクとしては、ちょっと。ねぇ。
ゆとりのすすめ
ボクみたいなケチな人間になりますと、同じ失敗を繰り返すどころか1度目の失敗もしたくない。そう考えると、何度も何度も同じ失敗を繰り返す人というのは、よほど人間が太っ腹にできているんでしょうねぇ。
下衆の後知恵というコトバがあります。ボクは、もし大会があったらグランプリが狙えるんじゃないかと思えるぐらい、その場で知恵が沸かない人間なんです。
人間というのは目前のモノに目がいきやすく、身近なものを正確に捕らえにくいんでした。自分が状況の中に入っていますから、どうしても全体が見えず、正確な判断ができにくいわけです。しかも、ボクのようなケチな人間というのは、さらに、失敗したくない。という思いにとらわれているわけです。こんな状況で知恵が湧くなんてムシのいい話はありませんね。
しかし、人間というのは無い物ねだりをするものなんですねぇ。その場で知恵が湧かないものか。ボクの常の失敗を考察してみますと、なんだか答が見えてきますね。
状況の中でもがくのはやめて、一旦外にでて自分の置かれている立場を理解する。とでもいいましょうか。それには、まず失敗したくないという思いを捨てなくてはなりませんね。ボクは、ここで余裕(ゆとり)というものをおすすめします。
前に登場しています、兵藤先生がボクにいったコトバがあります。
「人間のやさしさなんてのは余裕があって初めて生まれるもんだ」
キレイゴトの好きなボクとしては、このコトバにはちょっと抵抗がありました。が、ずう〜と頭の中で泳がせておいたわけです。そして、納得せざるを得なくなりました。消化できたというわけですね。
狭くとらえていたときのボクの頭の中には、どうしても、まず自分。それで余ったらそのエネルギーを人に回す。そういうエゴの肯定にしか聞こえなかったわけです。しかし、これでいいんですね。問題はエゴをどこまで拡張するか、ということなんですね。ボクが想像するに、エゴイストというのは、どこまでいっても自分の分が余らない人のことをいうんでしょうね。
さて、ゆとりの話です。
ボクは勘違いしていたことがあるんです。
ボクは収入が少ないくせに、飲みに行ったりしますと、いい気分になっちゃって、よくおごるんですね。ボクはよっぽど気前のいい人なんだなぁ。と、自分で感心していたんですが、気づいたんです。
たとえば、ボクの年収が300万円だとします。ところが、ケチで趣味のないボクは年間で200万円しか必要ではないんです。ある人は年収が600万円ある。ボクの倍ですね。ところが、この人の満足する生活を維持するには年間で600万円かかる。600万円の収入があっても600万円か必要であれば余裕はゼロです。ボクは気前がいいんじゃなくて、ただ余裕があっただけのことだったんですね。
よく、時間に余裕を持ちなさい。なんて言われました。
なんにつけてもゆとりが持てるということはいいことなんですが、とりあえず時間の話です。
人と約束をします。
ボクは待つというのがどうにも堪えられないタイプなので、人を待たせるなんてことはできません。ですから、約束の時間よりかなり余裕を持って出かけます。待っていると思うとイライラするので時計など見ずに本を読み始めます。だいたいからして時計など持っていないんですけどね。自分としては、そこに本を読みにきたつもりでいるわけです。したがって、相手が探し当ててくれないとマズイんですが、時間の話です。
ボクの早めに出かける。というのは5分や10分じゃないんです。ですかラ途中で知人にあったりしたら平気で立ち話をしますし、おもしろいことがあれば立ち止まって見ています。そんな具合ですから、人から見るとのんびり散歩でもしているように見えるのでしょうか。よく道を尋ねられたりもするんですね。そんなときは丁寧に教えてあげます。ただ、ボクはひどい方向オンチなようで、たまにまったく違う方向を教えてしまうこともあるんですね。
まぁ、これはさておきまして、もしギリギリの時間に出かけた場合どうなるでしょうか。知り合いに会っても「やぁ」で終わりです。困ってる人を見ても助けられない。それどころかゆとりがないからイライラしていて、すれ違う人にイヤな思いをさせているかもしれません。
お互いが譲り合って左右に体を動かして、結局はぶつかってしまう。なんてことは経験ありませんか。これなどは近すぎて正確にとらえられないという典型ですが、そのあとです。ボクは、余裕があるときはそこで笑いますね。でも、アセッているときなんかはナンダコノヤローとなっています。口に出すかどうかは別にして、そんな気分になっているんですね。スマイルとこのヤローとの違いというのは、相手の態度ではなく自分の心持ちなんです。
ギリギリとかスレスレとかで生きていますと、どうしてもピリピリとかギスギスになってしまうものなんですね。そして、ズキズキとかガンガンと自分にはねかえってくるものですから、自分の思惑が入りやすいんです。これがモノサシのクセです。正確に計れなくなってしまうわけです。
しかも、視点が狭いわけです。地上にいては地球の美しい青さがわからないのと同じように、状況の中に入ってしまっていては全体像は見えないんですね。自分の置かれている立場を知るには、その立場から離れた位置から眺めなくてはならない。これが自分から距離をおく、ということです。
なんだか難しいことを言っているように聞こえるかもしれませんが、思惑のかたまりである自分に、いやぁ〜ちょっと違うなぁー。そんなことしていいのかぁー。と言っているもうひとりの自分に気づいたことはありませんか。このもうひとりの自分のコトバに素直に耳を傾けるというゆとり、ボクはこれをおすすめしたいんです。
良心というもの
日本語には良心というコトバがあります。
ボクの頭の中ではお天道様に恥ずかしくない生き方、といった場合のお天道様と良心とはイメージとしては外と内という違いがありますが、概念においては同じになっています。この場合のお天道様というのは太陽であっても意味は神ですね。ボクにとって神と良心というのは同じなんです。
ボクは前述のようにのぼ〜として歩いておりますので、田舎道を歩いているときは道を聞かれるぐらいですが、駅の周りを歩いていますと、ちょっとヘンなイントネーションの質問を受けることがあるんですね。
「アナタハ、カミヲ、シンジマスカ」
ボクは相手がどんな人なのか知っていますから、相手の喜びそうな答え方をします。
「キリストには興味がある」
イヤな人間ですね。そして、日本人は全般的に、神は自分の中にいると思ってるよ。などと日本代表の気分で説明してみるんですけど、どうも気に入らないみたいですね。ボクは各宗教の説いていることはすべて同じだと考えています。
良心に従いなさい。ということではないでしょうか。
祈りということをどこでもします。これは、自分を素直にさせるための準備体操のようなものですね。そして、良心の声を聞くわけです。駅前でボクに声をかけてくる人の言葉で言えば天使の声でしょうか。
ところがなかなか聞こえてこないんですね。いっそなにも聞こえないといいんですが、ちょっと色のついた声が聞こえてきちゃうことがあるんです。ある種の人達の言葉で言えば悪魔のささやきでしょうか。
前に書きました。人間というのは生命としての本能が先で、そのあと生物になる。良心の声というのは生命の欲求なんです。そして、ちょっと色のついた声というのは生物の欲求が入った、という意味です。
この言葉は何度も使っていますが、また使います。罪ではないんです。生命が先であろうと生物である以上は生物としての欲求がなくてはならないんです。色のついた声が聞こえてしまうことは悪いことではないんです。当然のことなんです。
ただ、それぞれがこの色のついた声のもと、善行をなしているって気になられたんじゃたまったものじゃありませんね。そこで、ちょっとした見本のつもりでいろいろな物語が創られているわけです。根ッコはひとつなんです。そこへたどり着くまでの道程が違ったり、その形容のしかたが違うだけなんですね。
誰にでも良心があります。ところが、これがムキダシの状態になっていないんですね。生物として生きていくうちに、だんだん良心の回りにかさぶたのようなものが幾重にも着いていくわけです。
なぜ、かさぶたは着くんでしょう。良心は傷つきやすいんです。
かさぶたは傷が治ればとれます。良心に着いたかさぶたも、受けた刺激が消化できればとれるんです。
かさぶたはハテナの母
傷が完全に治って、はじめてかさぶたがとれるわけです。
傷はいつのまにか治っているようで、細胞の世界ではたいへんな格闘がありますね。ボクたちが意識して傷を治しているわけではありませんので、ついつい見逃してしまいやすいところです。
良心に着いた傷も、受けた刺激を消火するという地味な作業をおろそかにしてしまっては治りません。ビビッときた刺激を根ッコのところまでつなげないと、かさぶたはとれないんです。
我々が、ハテ?と考えることができるころにはいろんなかさぶたが着いています。逆の言い方をすれば、かさぶたなり刺激があって、はじめてハテ?がでてくるんです。生き物というものは、常にかさぶたを通した色のついた欲求に突き動かされているのです。そういうものなんです。
弘法大師は、自分が大日如来だと言ったそうです。言ったのかどうかは知りませんが、まぁ、そのようなことになっています。
弘法大師という方は密教を本格的に日本に持ち込んだ人ですね。密教の仏様というのはそれぞれが得意分野を持っています。違うとらえ方をしますと、少しだけかたよりがあるんですね。大日如来というのは、そのかたよりが一切ない完全な仏様のことです。自分はそれだ、というんですね。
弘法大師の教えの中に、小さな欲にとらわれず、大きな欲のままに生きなさい。というような教えがあります。小さな欲というのは、この文章の中で言う生物の欲求です。そして、大きな欲というのが生命の欲求ですね。そこで大日如来ですが、これは生物の欲求を超越した生命の欲求だけの存在ということになります。
ボクは弘法大師が本当にそういう状態で生きていたのかどうかということには興味がないんです。ボクがここで言いたいことは、みんなが生命の欲求を持っているということです。それが、生物の欲求によって、ちょっと隠れたような状態になっているんですね。ボクはこの文章のはじめのころに、いい影響とよくない影響ということを言っています。人は影響を受けて当然なんです。大切なことはナニに影響されるかですね。ボクの言ういい影響を受けるというのは、生命が「これこれ、これなんだよ」と、ビビッときて影響を受けるということです。生物の欲求を満たすのみの情報というのがよくない影響になりやすいですね。このなりやすい、というところはポイントです。生物も元々は生命あってのものです。生命の欲求が生物として具体的に現われたものなんですね。ですから、必ずしも間違っているわけではない、ということです。
弘法大師も、小さな欲を突き詰めていって大きな欲に高めなさい。というようなことを言っていたように思います。
さて、話を戻します。
ハテ?と考えるまで、私たちはなにをしているのでしょう。
人間は刺激を受けることによって脳の配線ができていきます。その情報は赤ちゃんである本人には選択権がありません。与えられた情報をすべて受け入れてしまうのです。
やっとこの話になった。
ボクのクセで、ついつい話がよそへ行ってしまって、ここまで戻ってくるのに我ながらハラハラドキドキそしてムズムズイライラしていました。
学校が枝なら幹は家庭でのしつけ、こう書いたのはかなり前であったように思われます。
しつけについて
親が子供に残してあげられる最高の財産とはなんでしょう。
ボクは良い習慣を身につけさせてやることだと考えています。
悪習を直すのはたいへんなことです。どうして、という疑問を持たないうちに、そういうものだ。と思わせて習慣づけてしまうことがしつけですね。
みなさんもお気づきのようにボクは理屈っぽい人間ですので、相手にも納得してから動いてもらいたい。と、考えがちです。
職場に新人が入ったとしますね。ボクは、つい説明しちゃうんです。微に入り細に入り。どうもこれがよくないようなんですね。相手は、予備知識がないどころか、まだ興味すら持っていない場合が多いんです。そういう人に、こまごまとしたところまで説明したところでその一つ一つがつながらないんです。
人間というのは、体験を伴わない知識を体系的につなげていくことができにくいんですね。つながらないと、その知識は荷物でしかありませんからわずらわしいだけなんです。逆に興味を失わせてしまう結果にもなります。今の学校教育にも同じことがすえますが、これはすでに触れましたので、ここでまた横道にそれることはしません。
これとは逆の体験があります。
なぜそうするのか、ということをまったく説明されずに手順だけをキチッと教え込まれるという体験です。
ボクは、なぜか。が、知りたい人なので、質問ばかりします。それが気に入らないのか、この先輩は質問には答えてくれません。そこでボクがこうしたらどうだろうと手順を変えてやってみたりすると、すごい剣幕で怒られちゃうんですね。ボクの考えでは、逆の方がいい。もしくは、どっちが先でもいいんじゃないか。という部分なんです。ですから否定するだけでなく説明が欲しいんですけど、やっぱり答えてくれないんですね。ところが全体の仕事が見えてくると先輩の怒るのがうなずけるときがくるんです。そのレベルにくれば分かることなんですね。逆をいえば、そのレベルに達していない人間に、分かったような錯覚を与えさせないというやり方です。
このことを、そのまま子育てに置き換えてみましょう。
ボクのような下衆でも、30年も生きていますと多少は知恵がついてきます。疑問をもったとき、答えてくれそうな人を探すという手もありますし、専門書などを読んで自分で勉強することもできます。ところが赤ちゃんというのは、子供電話相談室に電話をかけるという発想もなければ、百科辞典をめくるすべも知りません。第一、疑問そのものがでてこないんです。そして、自分の泣き声だけで欲求を理解してくれる母親に、ただひたすら頼るしかないのです。
赤ちゃんに情報の選択権がない。というのは、こういうことです。違う言い方をすれば、素直であると言うことです。良い習慣を身につけさせる絶好のチャンスといえますね。
ここで前述の先輩のことを思い出してみましょう。この先輩のやり方は、しつけにおいて理想ですね。理由は分からないけれど、これまでやってきて間違いはなかったんだ。という自信に満ちあふれています。説明しないというのが、疑問を持たせないコツですが、これはよほどの自信がないとできるものじゃありません。ボクのような人の顔色ばかりをうかがっているような人間というのは、求められる前から説明してしまうものなんです。
かなり前になりますが、日本というのは自覚のないまま伝統だけを守ってきたようなものだ。そして、最近そこらじゅうでそのタガがはずれ始めている。と書きました。
これです。
理由は分からないまでもしつけだけはしてきたんです。それを怠った。これは昭和の敗戦にキッカケがあります。敗戦により新しいものが入ってきたんですね。そして今までのものが、とにかくすべて否定されたわけです。この変化を目の当たりにした人たちが育て上げたのが新人類なる世代で、これはどうもボクの世代を前後するようです。そして次の団塊の世代と呼ばれる人たちに育てられた世代は、とうとう異人類になってしまったようなんです。
環境というもの
高校のとき、教頭先生のこんな訓話を聞いています。
ボクの高校時代というのは1980年代の頭です。このころはまだ、今(1990年代)ほどにはイジメというものが騒がれてはいませんでしたが、考えさせられる事件は起きていたようです。
子供たちが砂場で遊んでいて、ひとりの子の口の中に砂を詰め込んだらしいんですね。そしてそのまま死なせてしまった。そんな話から、昔はガキ大将というものがいて、その手前で止めたものだ。というお話でした。
おもしろいことに、ボクの育った地域では、ちょうどボクのところでそのガキ大将制度ともいえるものが途絶えたんです。学校側が廃止したわけでも、地区の父兄で申し合わせたわけでもないんです。状況変化が重なったんですね。
ボクの年までは上は小六から下は幼稚園まで、ひとつになって近くの空き地で遊んでいました。空地です。公園じゃないんです。ところが、ボクが中学に入るころには、その空地はなくなってきていたんですね。そしてやたらと似たような家が立ち並ぶようになったんです。近所のおじさんおばさんといっても挨拶しづらくなってましたね。もっとも、ボクはハニカミ屋さんですから、もともと挨拶のできる子ではなかったんですけどね。
そんなことはいいんです。ここでは、おじさんおばさんの方が、あれはどこどこの子だ。と、知っていたかどうかということの方が重要なんです。そして、遊びそのものも道具の要らない遊びからルールの決まった競技へと変わっていったころでした。ボクが生まれたのが東京オリンピックの年です。そして大阪万博が開かれます。日本の経済が急激に伸び始めたころです。そういえば学習塾なるものが流行しだしたのも中学に入るころでした。ちょうどこのぐらいから、遊ぶ相手が同級生になっていったんです。そして今では同級生どころかファミコンなんですね。兄弟もいない。
ボクは世間で騒ぐほどに一人っ子だらけになっているとは思っていません。正確な数字は知りませんが、深刻なほどに子供の数が減ったのは一人っ子ばかりになったということより、子供を生まない女性が多くなったからだそうですね。しかし、イメージとして一人っ子が増えたということになっています。大雑把に言ってしまえばしつけもされず甘やかされて育った子供が増えたということでしょう。これには昔に比べて、ガマンをしなくてもすむ環境で育てられた。ということが重なっています。
考える機会(チャンス)
人間は堪えるということをしないとモノゴトを考えなくなります。うまくいっているときに、なぜだ!と立ち止まって考える人はいませんね。いたれりつくせりで思いがかなったんでは、知恵が湧く機会を失ってしまうというわけです。
テレビも、ねぇ。ちょっと気になりますね。
テレビというものが生活の中でハバをきかせるようになって、もう久しいと思いますが、これほど積極性を必要とせずに影響を受けるというものはありませんね。本を読むという作業は非常にジミな作業ですが、これほど積極性を必要とするものはない。とにかく、読まなきゃ進まない。ところがテレビというものは華やかなものですが、影響を受ける側としては情報のタレ流しの見えるところに居るだけでいいんですね。ボクはこのような意識しない部分での影響というものにもう少し敏感になったほうがいいんじゃないか、と考えています。
ボクの少年期に流行ったのが青春モノといわれるものです。今の若者にとってクサイと映るものですね。ところがホクにとっては感動があった。今のドラマと呼ばれるもので若者が生活の中で話題にしているものに感動がないとは言いませんが、ボクの目にはウスッペラに見える。もう少し丁寧に言えば、ウスッペラな部分が妙にリアルになっている。いくらリアルに細かく描写しても浅いものは浅いんです。どこまでいっても深くはならない。表面的なんですね。うんと前に使った言葉で言いますと、皮肉の部分で止まった部分が目につきやすくできている、ということになります。
今の若者はモノを考えるチャンス埠奪われた環境で育っています。そして、テレビというものは無意識のうちに影響を受ける媒体のトップクラスです。この二つが重なった結果はどうでしょう。ドラマの主人公の服装や言葉遣いが流行ることがあっても、そのドラマに啓蒙されるということはありませんね。
啓蒙というのは、クラキをヒラクということですが、極端ないい方が許されるならば、どんどん窓を閉めてしまうような内容に出来上がっているといえます。
たとえば、大人なんてこんなものだ。世の中なんてこんなものだ。と、狭いとらえ方を与えがちな要素が多いということです。表面的にみれば、大人のやっていること、世の中で行われていることはドラマの通りなんです。ですから、テレビに影響された若者の思考は、その表面的なところでストップしたままなんですね。
「そうじゃないんだ」
こう言う大人がいなければ、社会に出てもそれほどのカルチャーショックわ受けずにいられるんです。くじけることがないんですね。ここでもまた考えるチャンスを失ってしまっているのです。
親は転ばぬ先のつえを持って子供にくっついて歩いています。学校の勉強はあらかじめ答えを教えておいて、どれだけ覚えたかを試しては整理券を渡しています。テレビや雑誌は、乗り遅れるな。と、ぬるま湯温泉行きの列車を24時間で走らせています。
取り越し苦労症のボクの目には、世の中がどんどん人にモノを考えさせないように動いているように見えてしようがないんです。
再び、しつけについて
考えないことがいけないことなのか。浅いことはいけないことなのか。深くなくてはならないのか。こういう疑問が出ないとも限らない。などとボクは気になるんです。
この文章は自覚をすすめています。ほぉう、それじゃあコイツの言う自覚なるものはどういうものかな。こういう姿勢で読んでいただけるとありがたいな。と思っています。
前にも書きました。自覚は人生の目的ではないんです、考えないことが悪いとか、浅いより深いほうがいいという法則は人生にはありません。ただ、自覚をすすめる立場上、それには自分を見つめるという作業が必要であり、表面的なものを追うという姿勢ではアカンでしょうな。モノを考える訓練を与えられずに育ったんでは厳しいですな。と言っているまでのことです。
なんだかわけの分からないことをダラダラと言っておりますが、ジツはあることに気づいたんです。またやっちまった。しつけからズレてるぞ、と言うことです。
今度こそしつけの話しに戻ります。
世の中には、人を惑わせるものが多い。いや、すべてがそうだとも言えるわけです。これは、今に始まったことではありません。昔からそうなんです。生命が生物として生まれたときら、そういう宿命を背負っているわけです。しつけとは、そういうものに振り回されないようにタガをはめておく、という人類の知恵です。
ボクは信号無視をします。といっても歩行者のときです。
ボクは見晴らしのいい交差点で、車が見えないのに赤信号であるために止まっている人を見ると、バッカじゃねえの。と思うような人間なんです。
信号は守るためにあるんじゃありませんね。交通をスムーズにするためです。ですから、歩行者用の信号が青でも左折車が止まって待っていたりすれば、ボクは走って渡ります。そして、子供が見ているときはキチッと信号を守ります。そのつもりなんですが、基本的に信号が眼中にないもんですから、つい渡ってしまってから子供の存在に気づいてハッとすることがあります。こんなとき、そばにいる母親が、○○ちゃん、ああいうことをしちゃダメですよ。悪いおじちゃんね。と言うのがしつけの基本です。
幼稚園ぐらいの子なら、信号を守りましょう。ということぐらいは教えられています。その子の脳に『守らなくてもいい場合』をインプットするのはまだ早いんです。惑わせるだけなんです。
良心との交信を保つためには、いい習慣が必要なんです。これがないまま、どっちに転がってもいい状態で暮らしていますと、楽なほう、生物の欲求ですね。こちらの方に転がりやすいんです。ですから、信号は守るものだ。という常識が身についてから、どうして守らなきゃいけないんだろう。という疑問を持つ、という順番がいいんです。
しつけというのはタガです。理想から言えば、これははずすべきなんです。ボクは、タガをはずして自由になりましょうと言いたい。しかし、自覚のないままタガをはずされたんじゃかなわない。そんなわけで自覚をすすめているように思います。