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 井上成美の遺言シリーズ紹介ページ 









  最新刊

山本五十六物語〈近衛会談編〉



――紹介文――

司馬遼太郎さんの小説で『覇王の家』というのがあります。その中の〈三河かたぎ〉という項にある文章から拝借します。尾張衆は三河の人のことを三河馬鹿とあざけるように言ったそうです。

その三河衆からすると駿河衆(今川家)は狡猾なんだそうです。三河衆は若殿の竹千代(家康)を人質として今川に取られていました。長老株の鳥居伊賀は戦場で「三河者は死にぐるいして働け」と叱咤したそうです。尾張の織田家との戦いですが、今川家の属国的扱いで、今川の指揮を受けつつ消耗品のように前線で戦います。手柄を立ててもまったく報われません。それでも、いつかは認められて若殿が還ってくると信じ、死にぐるいして働くのです。

尾張は商業が発達し、人間も近代化されています。その尾張衆から「人より猿の方が多い」と馬鹿にされつつも、三河衆というのは、質朴で困苦に耐え、利害よりも情義を重んずるという点で、きわだって異質である。と、司馬遼太郎さんは言っています。 城を守らせれば無類に強く、戦場では退くことを知らずに戦う。「三河衆一人に尾張衆三人」という言葉が、この当時からあったそうです。そして、この三河集団が徳川300年の歴史を作り、日本人そのものの後天的性格にさまざまな影響を残すことになったのは、奇妙というほかない。と、あきれるように感心しています。

越後長岡藩は、常在戦場という姿勢を幕末まで残した稀有な藩です。その常在戦場を受け継いだ山本五十六がどんな人だったのかちょっと、興味を持ちませんか?帝国海軍の軍人山本五十六ではなく、長岡藩家老河井継之助を敬慕する三河馬鹿の末裔山本五十六の生きざまを解き明かす。



陽明学徒山本五十六より

この時代の人を見るとき、令和に暮らす我々がまず念頭に置くべきは、その父親が江戸時代の人であるということであろう。その人が武士であれば、なおさら気をつけなければならない。

山本五十六は長岡藩士高野貞吉の子として生まれ、長岡藩の次席家老であった山本帯刀の家督を継いだ人である。養子であることは、その人の人生をより苛烈なものにすることがある。

越後長岡藩牧野家は、常在戦場を忘れることのなかった数少ない譜代大名家の一つであった。そのため長岡藩は戊辰戦争で最も激烈な戦闘を行うこととなる。その張本人とされるのが陽明学徒の河井継之助である。 五十六は、この河井継之助をひどく敬慕した。五十六の生きる姿勢は陽明学徒と言ってよいだろう。

司馬遼太郎は執政となった河井継之助に議論を挑み引かなかった安田正秀の口を借りて、陽明学をこう解説している。 「陽明学にあっては、事をおこすとき、それが成功するかしないかは第一義ではない。結果がどうかということは問わない。むしろ結果の利益を論ずることはこの学問のもっとも恥ずるところなのである。この学問にとって第一義というのは、その行為そのものが美しいかどうかだけであり、それだけを考えつめてゆく」

また、藩外にまで名の通った川島億二郎には、継之助評としてこう言わせている。 「河井は、あれにとって藩が大事なのではなく、自分の思想が大事なのだ。藩は、かれにとってかれの思想を実現させるためのひねり餅にすぎない。いずれは藩をつぶしてしまうだろう」

河井継之助は長岡での戦闘で負傷し、指揮を若い山本帯刀に託すこととなる。その後山本は会津に転戦し捉えられる。 官軍側は山本の人物を惜しんで降伏を強要したが、「藩主我に戦いを命ぜしも未だ降伏を命ぜす」と降伏を拒否したため斬首、家名断絶。長岡藩第十五代当主牧野忠篤はこのことを気にかけており、山本家に縁のある者たちの奔走により山本家は復活し、大正の時代に高野五十六が継ぐこととなる。

山本帯刀は少年のころから継之助を尊敬し、長じては門人のようになった、と司馬遼太郎は表現している。その山本家を五十六は継いだのである。このことを踏まえずして、山本五十六の言動を推し量ることはできまい。五十六にとって河井継之助は、単なる郷土の英雄ではないのである。



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井上成美の遺言〈予告編〉



――紹介文――

日本が大戦に突き進もうとした時にそれを食い止めようと必死の努力をしたため中央を追われ、南洋に左遷され、敗戦が濃くなった時には中央に呼び戻されて海軍次官として海軍大臣米内光政を助けて終戦に尽力、戦後は村の子供たちに英語を教え、表舞台に出ることを拒み続けた最後の海軍大将・井上成美の言動をわかりやすく解説したノンフィクション・ノベル。



兵学校校長井上成美中将より

戦後、井上さんを取材に訪れた阿川弘之氏(予備二期)が、国賊視されつつも自分の教育方針を貫いた理由を聞かされて驚嘆しています。

井上さんが持論を語りだして止まらなくなったそうですが、阿川氏にとっては全てがすでに聞き知っていることでした。井上さんの話を遮って、一つの質問を投げかけます。

「それらの一連の思い切った措置は、あらかじめ敗戦後の日本というものをお考えになった上でとられたのでしょうか」

阿川氏は「当時そこまで考えていたわけではない」という返事を予想していたそうですが、井上さんの答えは「むろんそうです」であり、さらに口調を強めて続けたそうです。

「あと二年もすれば、日本がこの戦争に負けるのは決まり切っている。だけど、公にそんなことを言うわけにはいきません。そんな顔をすることすらできない。名分の立たぬ勝ち目のない戦だと内心思っていても、勅が下れば軍人は戦うのです。新しく兵学校を巣立っていく候補生にだって、私の立場ではしっかりやって来いとしか言えない。 軍籍にある者のつらいところですよ。それならしかし、負けた後はどうするのか。とにかくこの少年たちの将来を考えてやらなくちゃならん。皆でメチャメチャにしてしまった日本の国を復興させるのは彼らなんだ。その際必要な最小限の基礎教養だけは与えておいてやるのが、せめてもの我々の責務だ、そう思ったから、下の突き上げも上層部からの非難も無視してあえてああいうことをやりました」

戦後、自分の弁解のために後付けでいろんなことを言う将官がいたようですが、井上さんのこの言葉はどうでしょう。



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井上成美の遺言〈海軍兵学校第37期編(上)〉



――紹介文――

井上成美の海軍兵学校同期生である草鹿任一、小沢治三郎、それぞれに縁を持つ陸軍の今村均を中心にした物語の序章。またマレー半島作戦での島田豊作戦車隊長の活躍を島田氏の著書から紹介した作品。



コタバル上陸作戦より

第二五軍鈴木参謀長の司会で始まり、山下軍司令官のあいさつ。そして、小澤が口を開いた。

「コタバルには第二五軍の考え通り上陸を実施されたい。私は全滅を堵しても責任完遂に邁進する」

議場は粛として声なく、むしろ快哉を叫び得ない感激の光景となった。

山下は、この日の日記に「一六時協定終了。必勝の信念成る。天気晴朗神気爽快なり」と書いている。

自ら危険を冒してタイ南部を踏査し、第二五軍側参謀の末席にて参加した朝枝は、この小沢の決断をこう評している。

「淡々として己を殺し、己の犠牲において、陸軍の作戦を思う存分に必成させようという、自己犠牲と申すか縁の下の力持ちと申すか、全くの海・陸一如の精神であり、協同などという生ぬるいものではなかった」

現地海軍がこのような姿勢で臨むのであれば、陸軍で協力の立場にある第三飛行集団も黙っているわけにはいかない。

海軍では、イギリス軍艦艇のシンガポールからの北上に備え、戦闘機を輸送船団の直衛に割く余裕はなく、当時の陸軍側の戦闘隊は、夜間の航法・着陸のできる者がごく少数であったため、日没前二時間までが直接援護の限界であると考えられていた。 集団長の菅原道大(陸二一期)中将は、「陸軍部隊の援護は陸軍がやるべきである」と、陸軍機の犠牲をかえりみず万難を排して日没まで上空警戒を続行すると決心した。この任に当たったのが「加藤隼戦闘隊」で知られる加藤建夫中佐である。



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井上成美の遺言〈海軍兵学校第37期編(中)〉



――紹介文――

帝国陸軍の中で皇軍の名将と呼べる数少ない指揮官、今村均大将のインドネシア軍政を主に取り上げた作品。また、長い「あとがき」の中では、北部仏印進駐のころのエピソードを大井篤氏の文から紹介する。



ジャワ攻略より

三月十日、今村は幕僚会議を開いている。ここから、皇軍たる今村のジャワ軍政が始まる。

「やがて実績を見たうえで、しだいに緩和政策に推移するとしても、当初は日本国日本軍隊の権威を認識させるため、弾圧政策によるべきである」

多くの若い参謀等の主張である。これに対し、軍政に専任することになっている中山寧人(陸三三期)大佐は、こう主張した。

「軍政の方針は、各軍出征のとき中央から下達されている『占領地統治要綱』に明示されている通り、公正な威徳で民衆を悦服させ、軍需資源の破壊復旧、それの培養、接収を容易迅速にするものでなければならない」

作戦課長の高嶋大佐、原田参謀副長、岡崎参謀長が同意。ここで今村は決意を述べた。

「軍政事項は、主として参謀副長と中山大佐とがその事務を分担することになる。軍司令官もまた、中央から指令されている通りに軍政をやって行くことに決心している。 八紘一宇というのが同一家族同胞主義であるのに、何か侵略主義のように観念されている。一方的に武力をもっている軍は、必要が発生すればいつでも強圧を加えることができる。だからできる限り緩和政策を以って軍政を実行することにする」



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井上成美の遺言〈海軍兵学校第37期編(中2)〉



――紹介文――

栗田艦隊の謎の反転として有名なレイテ沖海戦を詳しくつづった、左近充尚敏氏の『捷号作戦はなぜ失敗したのか』を基に経過を追う作品。



イントロダクションより

前巻あとがきで、日本軍の状況判断の甘さを書きつづっているうちに大井篤(五一期)さんの『統帥乱れて』を長く抜粋することとなり、北部仏印進駐の話になりました。 結果的には、これがアメリカが第二次世界大戦に参戦するための口実を作る足掛かりとなりました。開戦時の日本外交の失敗は、石油欲しさに南方に攻め入ったことではなく、アメリカを参戦に導きたかった狂人ルーズベルトの策略にまんまと乗っかったことです。

開戦時、真珠湾攻撃の成功を知った日本国民は、小躍りして喜びました。しかし、この時、世界で一番喜んだのはイギリスの首相チャーチルでした。チャーチルはルーズベルトにアメリカの参戦を懇願していたんです。

日本国内にも暗然とした人々はいました。米内(光政、二九期)邸に集まった、米内内閣時の外相有田八郎さんや書記官長だった石渡荘太郎さんらです。 しかし、この時、世界で一番激怒したのは、ナチスを率いるヒトラーでした。ヒトラーはなんとしても参戦したいルーズベルトの画策には乗らず、アメリカ艦船にだけは攻撃を加えなかったのです。

「なんということをしてくれたのか!」

これがこの時のヒトラーの本音だと思います。この点、当時の日本政府(を引きずり回した陸軍といった方がいいか)は、軍事同盟や、世界情勢に対する認識が幼児のようであったように思われます。 ボクは、幼児のような日本人的な感覚が好きです。好きですが、弱肉強食の国際社会で生きていくには、ちょっと脇が甘すぎるように思います。



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井上成美の遺言〈海軍兵学校第37期編(下)〉



――紹介文――

ラバウルを守り抜いた今村と草鹿。戦後旧部下の生活に助力するも自らには厳しい生活を強いた今村と小沢の姿。そして「敗戦に因る思想の混乱は座視するに忍びない。このままで行けば日本は遠からず精神的亡国となる。自分は無力ではあるが、何とかしてこれを防止せねばならぬ」と考えて大和会を結成した草鹿の意思を伝える作品。



イントロダクションより

ボクらしいと言えばボクらしいのですが、この編の四巻目となりました。一冊ではまとまらないと、〈上・中・下〉の三冊で仕上げようと変更したものの、さらにもう一巻必要になってしまいました。前の巻は、苦し紛れの〈中2〉としましたが、レイテ沖海戦のみの記述になりました。 一応オトリ作戦は小澤さんの活躍ですが、レイテ沖海戦の主役は一般には反転してしまった栗田さんになります。「謎の反転」ですね。しかし、ボクのフォーカスしたかったのは、連合艦隊司令部の方でした。


口頭での戦闘より

今村が横浜に上陸したのは昭和二十五年一月二十三日である。今村は巣鴨到着早々から所長に面会を求め、マヌス島への転送を頼んだが、応諾しない。

妻の久子が巣鴨に面会に来ると、今村は「なんとかしてマヌス島へ行きたい」と希望を語った。久子は「日比谷のマッカーサー司令部の中には各国軍の連絡班があり、そこに豪州班もあります」と告げ、頼まれるままに三度、「主人はアメリカ軍に対する戦犯ではなく、オーストラリア軍に対しての戦犯者であり、マヌス島で服役することを念願している」と請願した。

二月二十一日、今村はジープで横浜に送られ、三月四日、マヌス島に上陸、ただちに豪海軍刑務所に入った。

今村は、日本からいろいろな野菜の種を持参しており、五〇歳以上の戦犯者(今村を含めて六人)には、野菜を作らせてくれと頼んでみると、刑務所から五〇〇メートルくらい離れたところに畑を作ることを許された。

畠山の手紙の中に、週に二回メリケン粉の配給があり、日本人たちはそれをうどんにして食べているとあったので、うどんにはネギが必要であろうと、ワケギの種を持ってきていた。気候があっていたのかすぐに発芽し収穫も多かった。

そのうち豪海軍の将校や下士官が毎土曜日になると今村の畑にやってきて、ワケギをくれと言う。

「進駐軍として日本に行った時に覚えました。すき焼くらいうまい物はどこにもない。すき焼には玉ねぎではだめです。あなたのネギを分けてください」



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