皇大神宮

我が皇祖皇宗(皇大神宮)

 

皇大神宮は天照大神をお祭り申してあるお宮でございます。
此のお宮は伊勢の宇治山田市神路山の麓、五十鈴川の清い流れに沿い、
千年の老樹の茂った中にいとも尊く厳かに鎮まっていらせられます。
(以下絵の説明)
図の左手に御門、右手奥に正殿がお見えになります。
その御模様を拝すると、御屋根は神代ながらの茅ぶき、
御柱などは檜の白木をお用いになっています。
棟には鰹木を並べ千木を高く打ちちがえ、
すべて上古の様をかえないで飾少なくしかも神々しきお造りで、
誰でも覚えず頭が下がります。
(以上)
天照大神は皇室の御祖神であらせられますから、
皇室の此のお宮様を御大切に遊ばされることは一方でございません。
常々は御名代の宮様をきめて祭事に仕えさせられ、
神嘗祭などには特に勅使をお指立てになり、
また皇室国家の大事は必ず御報告遊ばされます。
明治天皇の御製に
とこしえに民やすかれといのるなる
わがよをまもれ伊勢の大神
とあります。
以て御尊崇の厚いことがうかがわれます。
勅語に皇祖皇宗とは皇室の御先祖の方々、
即ち天照大神を始め奉り以後御代々の神々、
御代々の天皇を申されたのであります。
大神は伊勢にお祭り申上げ
御歴代にはそれぞれお宮や御陵があらせられますが、
更に宮中にては大神を賢所に御歴代を皇霊殿にお祭りして
折々の御祭典をいとも厳かに行わせられます。

伊勢神宮

昭和19年文月の26日、海軍兵学校の校長官舎に、
海軍大臣秘書官岡本功から電話がありました。
「大臣がお会いしたいといわれています。
31日午前8時に海軍省においでください。
なおご参考までに申し上げすが、大臣は29日、
海軍大臣就任報告のため伊勢神宮にご参拝になり、

 その晩は京都の都ホテルにお泊りになります」
「それではその晩、京都でお目にかかることに願いたい」
このときの大臣は米内光政。
兵学校校長は井上成美です。
海軍兵学校は広島にあります。
わざわざ東京に出るよりは京都で、ということです。

京都ホテル
「おい、やってくれよ」
「なんのことですか」
「次官だよ」
「冗談じゃありませんよ。私の政治嫌いは先から御存じでしょうに。
私には政治を離れた江田島の方が、よほどいいです」
「ううむ、困ったなぁ。他に人がいないんだよ」
「それは、あなたが人を知らないからですよ。
第一、あなたは私を買いかぶっていますよ」
東條英機が内閣を継続できなくなり、
重臣会議で朝鮮総督の小磯國明が首相に推薦されたわけですが、
近衛が、米内さんにあんたも一緒にやってくれと言い出すんです。
そして、副総理格として海軍大臣に就任します。
井上成美は、米内の横須賀鎮守府司令長官時の参謀長で、
2・26事件のときに迅速な処置をして米内を援けています。
平沼内閣時、
米内は海軍大臣、井上は軍務局長として三国同盟を阻止しました。
山本五十六さんは、開戦前の海軍大臣人事について
「どうして井上にしないんだ」と憤激しました。
井上だったら東條と言い合っても勝てる、と信じていたようです。
その井上さんは、次官就任一ヶ月足らずで、
終戦工作を内密に始めることを米内さんに宣言します。
長くなりましたが、ここでお伝えしたかったのは、
米内さんは大臣就任に際して伊勢神宮に報告に行くんですね。
米内さんだけじゃないんです。
昭和16年霜月の6日、
広東の今村均将軍に陸軍大臣から電報が届きます。
「貴官は、今般、第16軍司令官に親補せらる。
明7日、中央より特派の飛行機により上京、
後任の酒井隆中将に業務の引継ぎを行なうべし」
今村さんは、第16軍がどこの部隊かも知らず上京します。
第16軍は蘭印に向かうことを知らされ、
日米交渉は決裂し開戦となります。
今村さんは、幕僚とともに伊勢山田の陸軍飛行場に降り、
体をぬぐい、服装を正し、自動車を走らせて皇大神宮に向かいました。
西行法師の
何事の おわしますかは 知らねども
かたじけなさに 涙こぼるる
を思い起こし、こんなの句を読んでいます。
何事の 故とも知らで 涙せる
法師の如く 廟にぬかづく
大臣になるとか、
司令官として出征するとか、
国を背負って衝に当たるとき、
皇大神宮にご報告に行くのは
当たり前のことだったんじゃないでしょうか。 

オリンピック選手団って
マスメディアが報じないだけで、
伊勢に出向いているんですかね。

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