どいつもこいつもチャイナにご注進しやがって

破綻する日韓外交と親中派の躍進

終わらない「謝罪」の真相

 

日韓、制裁の応酬へ

河野太郎の自撮り外交

自民党リベラル派の裏工作

国連と旧敵国条項

こんなメニューなんですが、

特にお伝えしたいのは中曽根。

彼が靖国カードをチャイナに与えた。

その流れですね。

 

まず、韓国との話なんですが、

やっと、

付きあう相手は自分で決める。と

日本が歩み始めた。と

さらっと終わります。

そうでもないか。

で、河野太郎の姿勢がいいんじゃないか。と、

でも、あのチャイナ外交部との笑顔の写真はなんだ。

韓国に見せつけてるのかもしれないが、

あれは、軽いぞ。と、

そこで、なんでチャイナにおもねるんでしょう?

その理由は何ですか?

「おもねる理由は、ない」

が、おもねる理由があると思ってる人たちが

大事なポジションを多く占めているってことだよね。

 

そんな流れから、靖国問題の発端は?

で、中曽根氏の話しですわ。

 

昭和59年、8月13日から

戦没者遺児が公式参拝を祈念して断食を始めた。

中曽根氏も気にかけていて

官房長官であった藤波孝生が

15日の参拝時に、なんとか調整するからと、

断食50時間で説得に成功。

昭和60年、中曽根総理は公式参拝。

 

昭和61年の官房長官は後藤田正晴。

副官房長官の渡辺秀央が

今年は行かないようだ。と藤波にリーク。

ここで藤波さんは動きます、

「1回で公式参拝が終わっては意味がない。

続けていくことで定着するのだ」

中曽根は行きません。

「胡耀邦の立場を尊重して」

このように伝えられていますが、

ポイントは後藤田。

 

後藤田は田中派重鎮。

田中派といえばチャイナ。

そして、中曽根内閣といえば

田中曽根内閣、角影内閣などと揶揄されたほど

田中派の影響が非常に強くあった。

 

昭和61年に、チャイナで大きな反発があったわけではなく、

後藤田がチャイナにおもねり、圧力をかけたのではないか。

中曽根は、チャイナというより、田中派勢力に負けた。

 

チャイナはここで

靖国を外交カードとして使えることを認識。

 

結局、慰安婦問題と同じように

日本の中のヘンテコな勢力が

チャイナに外交カード候補を

提案したところから始まったと考えていい。

 

ここで浮かぶのはスパイ防止法。

いつまで経っても成立しないわけだ。

 

ちなみに、中曽根氏は

総理になって、

昭和58年春・秋例大祭と8月15日、

昭和59年年初、春・秋例大祭と8月15日に

靖国に参拝しています。

 

昭和60年に、大見得切って

公式参拝って大々的にやったわけですね。

遺児との約束を守るために

公式参拝をしたことはいいとして、

初めから1回だけのつもりだったのか?

足元が弱いなら、

ちゃんと根回ししとけよって話よね。

 

角栄脳梗塞、竹下の創成会で、

ちっょと、なめてたか?

 

 

一応、国連の話も。

分担金、凍結していいんじゃね?

その分は、防衛予算の人件費にあてたらどう?

軍需産業を伸ばせば、

防衛費が伸びたぶん経済も伸びるんだから、

こちらはどこかの予算を削るって発想で考える必要はないでしょ。


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