I-novela/indo-report'95

インドレポート'95


 目次

  
まえがき
  デリー着
  ニューデリーへ


  まえがき

 インドね、いろんな人が、同じようなことを言ってるわけですよ。
 人生観が変わる。とか、スキかキライか真っぷたつにわかれるとか、ね。
 具体的な話でいくと、コジキに囲まれて動けなくなる、なんてね。
 オレはそういう世間の情報に対して、そっんなことがあるか!って姿勢でもって生きてきたわけですよ。
 1995年といえば、もう31にもなってるんだけど、こういう気質っていうか、そういうものって直らないものなんですね。人間ってのは、自分の中のそういうものに気づくことが大切なんだと思います。そして、そのとき自分のことがカワイク思えたりイトオシク感じたりするんですね。そういう本当の自分に出会えたときから、人間は自分を信じることができるようになるんです。
 自信っていうのは、人より何かがウマイとかなんとかっていうところからは生まれてはこないんです。仮に似たようなものが芽生えたとしても、それはいずれ覆されちゃったり、ただのウヌボレであることを気づかされたりする時がくるものなんです。それを一生気がつかないでいられる人はそれはそれで本人は幸せかもしれないんだけど、そういう人って迷惑なんだよねぇ。
 そんなわけで、インドのなんとかが見たいとか、どこどこに行きたいって思いのないまま、どうせ飽きちゃうだろうからってことで4weeksだけにしといたんです。

 思ったとおりだった。人のウワサなんてのは100分の1ぐらいにして聞いておいたほうがいいようですね。
 ただ、想像なんだけど、5年前、10年前はもう少し噂に近いものがあったんじゃないかなって思いは、正直いってあります。だから、この文章の題名には'95というものを入れることにしました。それからもう一つ、このレポートはインドの中のごく一部分だけに留まります。




  デリー着

 デリーの空港に着いたのは夜中だった。
 予定では夜のはずだったんだけど、これが、インド時間ってやつでね。時差のことじゃない。ルーズってこと。予約の時点では14:30発ってことになってたんだけどスケジュール変更がありましたってことで12:00になっちゃったのね。それにあわせて成田へ行くと放送が入ってたわけ。
「AI307便(オレの乗る便)は15:30発となりました」
 これってふざけてない?
 予定より早く来いって言っておきながら、いざ行ってみりゃ予定より遅くなってるわけね。こういうのって、オレ、すっごく気に入らないのね。腹、切ってもらいたくなっちゃうのね。でもってこの時間帯をもうちょっと考えてみたいわけ。
 だいたいこういう国際線ってやつは、2時間前に現場に到着しておくものらしいんだな。それに従えば12:30に着たらいいものが10時に来なきゃいけなくなっちゃったわけ。みなさん知ってのとおり日本の国際線へのアクセスってのは非常に不便にできあがってるもんだから、東京から成田までナントカエキスプレスみたいなのでも1時間ぐらいはかかるわけね。
 オレは常に一人旅なんだけど、この旅ではツレがいて、そいつが当時福島県のいわきに住んでたんで(オレは愛知県)東京で待ち合わせてたわけ。もちろんその前日にね。そして、当然のように酒なんか飲んじゃって盛り上がっちゃうわけだ。そういう健康的でない人々ってのは当然のことながら朝はゆっくりしたいわけね。それが9時前にはホテル(っつったって上野のカプセルだけどね)をチェックアウトしなくっちゃって心構えが必要になっちゃったわけ。不愉快この上ないわけね。だから、この2時間半のスケジュール変更っていうのは単なる時間の繰上げにはとどまらず、オレたちの前夜、いってみればイブですな。このイブの行動にまで響いてきちゃうわけなんですよ。しかも、ついてみりゃ、もっと遅くていいんだよってんだからさ。なんだ、チェックアウトまでいられたんじゃねえかよってさ。分かるでしょ、この気分。

 そんなわけでデリー着が夜中になっちまったってわけなんです。
 これはエアーインディアって航空会社なんだけど、有名らしいんだよね。個人で旅する人ってのはいろいろ調べるものらしくて、安いってだけじゃなくてサービスがいいかどうかってね。
 オレなんて無防備な旅人だから旅行会社いって「インド行きたいんだけど、安いの適当にみつくろってくれない?」だからね。最初はオレがあんまりにも予定が決まってないもんだから受け付けのネエちゃん、ひやかしだと思ったんだろうな。オレの話が終わってないのに、後から来た2組の話を処理してたもん。
 どうも、この、デリーに着いたと思いきや、また日本に戻っちまって、話が進まないんだけど、ここは戻りついでに、インド行きのきっかけまで戻りましょうか。

 オレは英語ができない。が、インドには行かねばならぬな。という思いがあった。ここにもう一人。インドには興味を持ちながらも、オレと互角の英語力を持つ男がいた。三上勉。岩手県生まれ、当時29歳。
 オレにはインドへいま一歩踏み出しきれない理由があった。コレラ、マラリア等の病気。というよりはその予防のための注射が怖かったのね。ところが調べてみると、近年それらの予防接種はしなくてもよろしいという判断が下されたそうなんだよな。また、その理由がイカしてるわけ。もう心配要りませんって胸張ったんじゃなくて、心配してもしょうがないからって開き直っちゃったみたいなの。ようするに、予防接種の効果は認めがたい。ということがハッキリと認められたということなんだね。
 そんなわけで、じゃ、行っちゃおっか。と、二人で盛り上がったのは名古屋のネオン街でのことであった。

 ネパール三上(彼はインドで、よくネパール人と間違えられた)とオレが知り合ったのは1992年の夏の終わりであったか。
 オレが春から長野県松本市の近郊で百姓のアルバイトをしていたとき『東京のカプセルホテルをねぐらにしているパチプロ』といった肩書きでネパール三上がやってきた。
 冬がきて、畑が雪で覆われると、オレたちはまた別々の道を歩むわけだが、年に1・2度は便りがあって、1995年9月9日、名古屋は栄で会い、酒の勢いでインド行きが決まってしまった。
 ネパール三上は海外初めて、オレは、でもちょっとインドは、ねぇ。というお互いの不安を二人で行けばいいだろぉ。なんて、なんの根拠もない励まし合いの末「出発は11月の上旬」とだけ決めると、翌朝はそれぞれの生活に戻った。そして東京で落ち合い、翌日、夜中、デリーの空港に着いたのだった。




  ニューデリーへ

 さて、ここで問題です。
 入国して(入国手続きを済ませてから)まず最初にやるべきことはなんでしょう。 そう、現地のお金に替えること。両替。changeですね。
 この、インドの紙幣ってのがすごいのね。1,2,5,10,20,50,100,500ルピーと種類が多い(このころは1,2,5はコインしか造ってないみたいだったんだけど、十分流通していた)なんてことはドオォーってことないの。やつら、札束をホッチキスで閉じちゃうのね。だから古株の紙幣になると左側が1cm四方ぐらいの穴になっちゃってるわけ。もちろん日本ほどしっかりした紙を紙幣に使ってるような国はないから、ほかの部分も触れるのが怖いぐらいにボロボロになっちゃってるわけね。
 そういう価値のなさそうな紙切れをオレたちに平気でおつりとして渡すくせに、こっちがそれで払おうとすると、本トに価値のない紙切れになっちゃうわけね。
 これ、ちょっと大げさに言ってます。ネパール三上は何度かそういうわけで返されたらしいんだけど、オレは一度もそんなメには遭っていません。
 こういうことなんですね。人の話というのは、悪意がなくても面白くしようと大げさになっているものなんです。

 そんなことはさておき、空港の両替所で前のやつがボロボロの札束をもらってるのを見て取ったオレは、300ドルを替えるつもりだったところを急遽100ドルだけにしたね。前に、ロシアがソ連といわれてたころ、両替した札束が使い切れなかったことがあってね。小額の札を束でくれるってことは、その上の額面の札があったとしても使用機会がないということだからね。
 インドってのはオレたちのような貧乏人をも金銭的にはやさしく迎えてくれる国でね。オレたちってカネモチとはゼ〜〜〜ンゼン程遠い人たちなんだけど、ヘンに金離れがいいのね。そんなオレたちでもホテル代、列車代、食事代合わせても1ヶ月三万円ってところだったな。

 インドルピー両替を終えたオレたちの次の目標はニューデリーと呼ばれる街に向かうこと。
 ここでひとつ。ニューデリーとデリーが違う街だと思ってる人がいるみたいだけど、これは同じです。まぁ、同じJRで新大久保と大久保があるのと同じだと考えてくださってケッコーです。
 さぁ、どうやって行くか。
 行くだけなら無防備に空港のビルを出たらいい。すかさず5人も10人も(これはほぼ正確な数字です)のタクシーの兄ちゃんが寄ってきますから。
「俺に任せなっ」
 こんな感じですか。ハッキリ言って気の弱い人はその中の一人の後部座席に座ってしまうことになるだろうなぁ。でも、命がなくなるわけじゃないから、それほどの心配はしなくてもいい。通常より多くの料金を請求されるだけのことで、日本より高いってことはないだろうから、そのぐらいの料金なんだ。と思ってればそれで済むことだからね。ただし、そういうやつらの提案にノーが言えずに1ヶ月を過ごしたら、ケッコーいい暮らしをさせてもらえるだろうけど、30万じゃ済まなくなるだろうなぁ。当然お土産が付属しちゃうだろうからプラス100万かな。
 無防備な旅人であるオレではあるが、このサバイバルタクシードライバーズの襲撃を受けた瞬間、こりゃサギ師的ボッタクリ軍団の世界だな。ぐらいのことは察しました。

 こういう言い方はいけませんな。サギ師だなんてね。まぁ、世の中には人をダマスことが商売だと信じて疑わない人種がいるってことだね。
 これは、国単位とかでくくっちゃいけない。インドには正しく生きてる人のほうが圧倒的に多いし、日本なんかは勘違いしてしかもエバッてるような人もいっぱいいるでしょ。あっ、こう考えると日本の方がひどいなぁ。なんてね。すぐにこうやってグループにくくって考えたがるんだよね。人間って。
 ともあれオレは、この時点で、
「ウヌ、これは気持ちを引き締めてかからねばならぬようだな。三上氏」
 と急に時代劇風に身構えたのであった。

 オレは回れ右をするとさっさと空港建物に入った。入った、と簡単に言っちゃってますが、じつは出口専用らしくて、守衛のおっちゃんがとがめてるんだけど、無視。言葉の分からない便利さは、こういうときに利用しましょう。
 どこが市街行きのバスチケット売り場であるのか。と、一つ一つのカウンターをにらみつけていると、フランス人(なんかそんなイントネーション)のおっちゃんがバスチケットであろうと思われるものを見せびらかしている。
「俺はもう買ったぜ、安いもんだ」
「あっ、それどこ」
 オレがそんな顔をすると、ひとつのカウンターを指す。オォーサンキューサンキュー、あれ、メルシーか。なんて考えつつラッキーとチケットを二枚求めているうちにそのおっちゃんはいなくなってしまっていた。
 あれっ、どこいっちゃったのぉ。
 とにかく外へ。
 またまた来ましたよ。サバイバルタクシードライバーズ攻撃。でも、今度はちょっと強気なんですね。
「オレたちはこれに乗るんだ。ザマーミロ。さっさと消えなっ」
 水戸黄門の印籠よろしく先ほど買ったチケットを見せるわけなんだが、通じませんな。
「そのチケットはオレの車だ」
 これだもの。
 オレとしてはふざけるなってなもんだけど、とりあえず真夜中の空港周辺(暗いんだよ)を歩きたいわけ。
「マズイんじゃない?」
 初陣のネパール三上にしてみれば、これ、当然の発言です。
 なあ〜んにもマズクないんです。車の前まで行って乗らなきゃいいのね。
 それからもうひとつ。これはひとつのテです。そいつと歩いてりゃその他大勢のドライバーズの相手をしなくて済むわけね。すると周りを見る余裕もできるというものです。

 そいつがオレたちを連れて行こうとしてるところは自家用車用の駐車場って感じのところなんだけど、その入り口にバスが止まってたんだな。こいつがもうオンボロって域にはないわけ、走るの?って感じかな。いや、博物館的存在ですな。オレは車にウトイし、日本ほどきれいな状態で車を使ってる国はないだろうから、この表現には普遍性はないけど、手入れしてない20年モノって感じかな。しかも、日本でいうと、これはマイクロバスでしょうな。
 オレとしては空港シャトルバスというものをイメージしてるからね。イコールデラックスバスだと思いこんでおりまして、ハイ。でも、一応エアポートナントカって書いてあるし、おれたちゃ公共交通機関だもんねってなノリで止まってっから、チケットを見せてみたんだ。すると、そのずう〜〜と向こうにあるバスを示すわけ。そりゃそうだろ。と、再びデラックスバスをイメージして近づいたオレたちの前に現れたのは手入れしてない19年モノでした。
 ただし、オレはチケットと同じマークがボディに記されていることを見逃さなかった。そして、ネパール三上は先のフランス人であろうおっちゃんが乗っているのを目ざとく指摘した。

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