自覚のすすめ  目次

  自覚のすすめ
  自覚と洗脳
  寄生虫のサガ
  自分のことをタナに上げるについて
  人のふり見て我がふり直せについて
  哲学と宗教
  評価する基準
  素直な言葉
  学校で習ったこと
  条件あっての答
  現実での反応
  反省のすすめ
  ゆとりのすすめ
  良心というもの
  かさぶたはハテナの母
  しつけについて
  環境というもの
  考える機会
  再び、しつけについて
  教育について
  母親の自覚
  オスについて
  幸せ者の条件
  自覚の原点
  幸せの性格
  歴史のお勉強
  数学のお勉強
  これからの流れ


著者に一言、言いたい方は、こ・ち・ら 

著者に二言三言、言いたい方は、こちらです



 自覚と洗脳

 自覚というものはフーンと、頭の中になんとなくイメージがわくといったような

 なまやさしいものじゃないんです。ビビッとくるんですね。

 これは説明のしようがない。

 ただ、本当に自覚したかどうかはその人の行動を見たら分かるんです。

 自覚のある人の立ち居振る舞いというのは、

 見る人が見ると輝いて見えるものなんですね。

 問題はここからです。

 1995年にオウムというのがかなり騒がれました。

 これでウスッペラな兄ちゃんがかなりブラウン管に映ったんですね、よくしゃべる。

 ボクなんかの目にはウスッペラなやっちゃな、としか映らないんですけど、

 当時は彼に輝きを感じた人が、

 ボクなんかからしたら信じられないような数で発生しているんです。



 自覚というのはいろんな自覚があるんです。

 ボクがすすめている自覚というのは、寄生虫であるということの自覚とか、

 生きものであるということの自覚ということなんですけど、もう少し身近なところで、

 まぁこれも今お勧めの物件なんですけどっていうのが

 母親の自覚とか父親の自覚ということになります。



 自覚するとなにがいいかといいますと、迷いがなくなるんです。

 そういう人が輝いて見えるということは分かりますね。

 それに近いのが目的を持っている人です。

 これも輝いて見える。

 さて、ここで前出のウスッペラ兄ちゃんですが、

 彼を輝いていると錯覚させる原因というのは当然あるわけです。

 たとえば洗脳という言葉がはやったんですが、

 洗脳されている人というのは迷いがないんです。

 もちろん、指示がないと動けないんですけどね。

 ここでちょっとだけ宗教というものに触れておきますと、宗教というのは、

 迷える人にある考え方を信じ込ませて(洗脳して)人を導くことなんです。

 この方法はある段階までは必要な場合が多く、有効な手段とも言えるんです。

 が、完全ではありませんね。



 自覚するということと洗脳されるということとはかなりの隔たりがあります。

 自覚というのは自ら目覚める。まぁいってみれば気づくことですが、

 洗脳されるというのは、

 もう少し親しみのある言葉でいえば影響されるということになります。

 むかしはこういうヤツをかぶれてるといったんですね。

 むかしから女の子というのは

 かぶれてるヤツに魅力を感じるようにできていたんでしょうね。



 自覚というのはビビッとくると書きました。

 ビビッとくるというのは電流が流れるということなんです。

 我々は生きものですから生命のエネルギーというものを持っています。

 それが外部からの刺激とつながって電流が流れるわけです。



 ここでこだわるべきことがあります。

 自覚というものも外からの情報と反応しないと生まれないということなんですね。

 では影響を受けるということとどう違うのか、

 これをハッキリと理解してから先へ進んでほしいんです。

 ジツは、影響を受けるということはいいことなんです。

 ホラ、ややこしいでしょう。

 ボクは読者を困らせています。わざと。

 最近の人は本を読むときに自分の頭で考えないで読んでいるように思うんです。

 ですからボクが世間でよく使われている言葉を使って話してもスラーと入っていく。

 しかしこれは自覚にはいたらないんです。脳にデータとして残るだけなんですね。

 たとえばこういった勘違いも起きうるんです。

 前に聞いたデータと今聞いたデータは同じだ!

 ウン、ビビッときたぞ!こう思っちゃう。

 これがイケナイ。

 分析する気のないデータなどというものは、

 いっそ残さないほうが罪がなくていいですね。

 ところが、人間というものは情報を得てそれを消化しきれない場合、

 引き出しにしまっておくといった習性があるようです。

 ナンのためかというと自覚するためなんですね。

 まだこれだけじゃ自覚できないけど、

 もう少しデータを集めれば自覚できるかもしれないぞ。というわけです。

 今の日本の学校教育というのは、この整理整頓を競い合っているみたいですね。

 整理整頓は順番がつけやすいんです。



 こんなこと言っちゃうと、今の先生に悪いんですけど

 事実ですからハッキリと言っちゃいますと、

 本当に理解していない人でも採点ができるんです。

 ジッサイのところコンピューターで処理していますね。

 これ、分かりますね。

 いくら整理整頓しても活用しなければデータはただの荷物なんです。

 今、学校の成績がいいといわれる子は、その整理整頓がうまいんです。

 整理整頓がうまくなってその出し入れが早くなったとしても、

 荷物の活用の仕方は教わらないんです。

 大学に入ると分析するという行為が許されるはずなんですが、

 もうその頃では荷が重過ぎるんでしょうね。

 逆に成績が悪いという子は整理整頓がヘタな子なんです。

 幸いにしてちらかっていますと、あまり多くは入りません。

 整理整頓がヘタですから正しくは自覚できなくて過ちも起こしやすい。

 しかし、早く(荷が少ないうちに)世の中にでますね。

 そして苦労して、少しずつ自覚していくんです。



 おおまかに言ってしまえば、

 学校の成績が悪い子の方が人間らしい生き方をしているんじゃないでしょうか。

 皮肉なことではないんです。

 当然のことなんです。

 まちがったシステムを作ったんですから思い通りの成果はでないんですね。

 ここで、読者を困らせてしまったことの答を

 言葉のうえだけですが述べておきますと、

 いい影響を受けることによって自覚するというのはいいんですが、

 よくない影響を受けてまちがった思い込みをするという心配がある、ということです。

 このいいこととよくないこととの区別をハッキリとできるためには、

 人間(自分)というものをハッキリと自覚することが大切ですよ。

 ついでにいえば、

 そのことだけでいえば、今の学校教育はマイナスに働いていますよ。

 ということなんです。




 寄生虫のサガ

 皮肉なことではない。と書いたんですが、皮肉なことですね。

 つまり、世間では思わぬ成果がでたときに、“皮肉なこと”というんですね。

 したがって、正確には皮肉なことで済ませてはいけない。

 と書くべきだったわけです。

 ふと思ったんですね。そして『広辞苑』を引いてみたんです。

 【皮肉】A(骨の髄にまで達しないところの意)うわべ。表面。理解の浅い所。

 こうあるんです。

 文字通り皮肉でおわっていたんでは真実は見えないんですね。

 骨のところまで、もっといって心ノ臓までアバク必要があるんです。



 人間は思い通りにならないとムッとくるんですね。

 ジツは、この項からボクは新しいワープロで打っているんですが、

 前のやつが10年以上も前のものであることと、

 メーカーが違うということでかなり苦労しているんです。

 最初のうちは怒鳴り散らしてますね。

 ナンだ、コイツは!バッカじゃねえの!ってね。

 ここまでくるのに2時間近くかかっています。

 ところが、なんとか打ち込めて変換ができるようになってくると、

 分からないことがでてきたりしてもムッとこないしイライラもしない。

 すぐには分からなくも

 なんとか説明書の見方が分かってくるもんだから冷静でいられるんですね。



 思い通りにならないというのは、

 自分の勝手な思い込みによる予定と違う、ということです。

 こんなはずじゃなかった。ってなわけで、ようするにヨミが甘いんですね。

 ところがそんなことはタナに上げちゃってムッとするわけです。

 このムッとするってのはよろしくはないですね。

 しかし、ヨミがあまいってのはしょうがないんです。



 人間というのは寄生虫ですから、ほかを頼るというサガを持っています。

 希望的観測をしてしまうんですね。

 希望的観測を自覚している場合は、やっぱりダメか、で済むんです。

 ところが寄生虫というものは存在自体が他を頼るところから始まっていますから、

 どこから希望的観測になっちゃってるのか気付きにくいんですね。

 これをボクはサガと呼んでいるんです。

 聖人をめざした昔の人は、

 この他を頼るという気持ちを捨てようと努力したんですね。

 これまでの人類の歴史というのは、往々にしてこうでした。

 人間のサガとしてとらえず、己れの至らぬ点として克服しようとしてきたんです。

 ボクなんかの目には、これはとてもつらい道に映る。



 ボクの勧める自覚のすすめというのは、

 人間というのは本来こういう性質があるんです。

 これを悪い部分として隠そうとしないで、

 そういうものだ。と

 認めたうえで気をつけていこうではありませんか。

 ということなんです。



 世の中のいさかいというのは、すべてが誤解から生まれているわけで、

 誤解というのは、ようするに皮肉の部分で止まった理解ということなんです。

 みんなが心ノ臓までアバクことができたら、

 世の中のいさかいかなくなるんじゃないか。

 ボクは、そんな甘いヨミをもってしまったわけなんです。




 自分のことをタナに上げるについて

 自分のことをタナに上げるというのは、自覚がないとてうことであり、

 そのこと自体も自覚していないということなんです。

 ヘンな言い回しですね。これはボクのクセです。こういうのに慣れていただきたい。

 人類の使っている言葉を大きく分けて分類したがる人もいるかと思いますが、

 ボクに言わせれば一人一人、言葉のニュアンスが違うんですね。

 ですから、ボクとしては、

 日本語を使って

 微妙なニュアンスの違いをハッキリさせたいという願望が異常なほどに強い。

 ですから、ワザと紛らわしい表現を使ってアレ?と、

 読者に立ち止まってもらおう、

 という術をいつのまにか身につけてしまったようなんです。

 いつのまにかですから、そういう表現のほうが先にでてきてしまうわけで、

 試行錯誤してでてくる技巧とは違うようです。

 やはりこれは術というよりクセでしょうね。



 ややこしいのがいやな人に、ちょっとしたコツを申し上げておきますと、

 そのときはアレ?と思っていただくだけで結構です。

 アバウトにとらえたらいいんです。



 人間の誤解というのはハッキリ分かっていないから起こる。

 というよりは、言葉を狭くとらえすぎて誤解が生まれると言えます。

 だいぶ横道にそれたんですが、これもボクのクセです。



 さて、自分のことをタナに上げるでした。

 人間というのは本能が先です。

 生命としての本能が先で、そのあと生物になるわけです。

 この生命だの生物だのを

 魂だ霊だ肉体だナンダと論じることはここでは避けます。

 そんな単語なんてものはどうでもいいんです。

 アバウトに進んでいるうちに、自分の中でビビッと来るときがあるんですね。

 これが大事なんです。



 タナに上げちゃったものを忘れちゃうというのはしょうがないことなんです。

 人から見ればタナに上げてるんですけど、本人は上げた覚えがないんです。

 生きものというのは自覚なく生まれてきて、

 だんだん自覚していくものなんです。

 いってみれば生きもののサガみたいなものなんです。

 タナに上げたって意識がないからこそ

 胸はって人のことを言ってみたりするわけですからね。



 おもしろいもので、人のことはよく見えるんですね。

 自分のことは見えにくい。

 だからこそ分かりにくい。

 ところが、人のことよりは分かりやすいんです、自分のことは。

 人のことというのは見えはしますけど分かりはしないんですね。

 少なくとも、分かったなんて簡単に口にすることは

 相手に対する非礼だと思いますね、ボクは。



 人のふり見て我がふり直せについて

 さて、どうやって自覚していきましょうか。

 これは、自分のセンサーを研ぎ澄ませて外界を見ていくしかないんです。

 人間の目というのは外を見るためについているようですね。

 ところが、自分というものは内にあるんです。直接には見えないんですね。



 人のふり見て我がふり直せ、という言葉があります。

 文字通りにとるのもいいんですが、ボクは次のように理解しています。

 人間は、自分を基準にしてしかものが考えられないんです。

 これは自己中心的といわれているものとは意味が違います。

 たとえば、自己中心的とは反対のような言葉で、

 思いやりというものがあります。

 これは、人のことを自分のように、または自分以上に思うこと、

 という使われ方がされていると思います。

 あの人、つらそうだな。手をかしてあげようか。とか、

 あの人、あのことで傷ついてんだな。ちょっとそっとしておいてあげようか、とか、

 あの人、困ってるみたいだな。教えてあげようか、とか、そういうことですね。

 お気づきのように、自分を基準にして相手のことを考えているんですね。

 ですから、思いやりもアダになることがあるんです。



 ここでまたちょっと、ムリにこだわってみますと、

 思いやりというのはアダになりにくいんですね。

 思いやりというのは心が反応するものですから。

 ところが、教え込まれた親切というものを実行に移す場合、

 アダになる可能性が高くなるんです。

  お年寄り → 65歳以上

 こういう狭いとらえ方がまずいんですね。

 ボクはテレ臭いのもあるんですけど、

 推定年齢で席を譲ったことはないんです。

 大変そうに立っているお年寄りとか、

 赤ちゃん抱いて荷物抱えてるお母さんとか、

 そういう人を見ると席を譲りたくなるんです。

 譲る、と書けないところが、

 ボクのまだ素直になれていないところで、テレ臭いんですね。

 でも、推定年齢だけで判断するよりはずっと譲りやすい。



 話を、ます、自分を基準にしてしか・・・というところに戻しますと、

 他人の身になって考えるといっても、

 それは自分の想像する他人の身になるのが精一杯だ、ということです。

 そんなわけで、人のふり見て我がふり直せ、に戻ります。

 ありのままの自分を直接見るということはできないから、

 人を通して自分を見なさい。

 人のやってることで、アッ、ヤダな。と思うことがあったとしたら、

 それは自分の中にもあるものなのだから、

 その、自分は違う。とタナに上げているものに気づきなさい。

 そして、直しなさい。

 ということではないか、ボクはそのように考えています。



 だいたい人の行ないを見てヤダねぇ〜アイツは。と思う場合、

 本人はそこまではやらないまでも、

 それの小型化したようなことをちょくちょくやってるんですね。

 だからこそ反応が早く、しかも強いんです。

 なんてヤツだ!なんて、顔を真っ赤にして怒ったりする。

 ところが、根ッコの部分にビビッと来る人というのは、

 同じことはしないんだけど、

 やってることは五十歩百歩だ、とピンとくるんですね。

 そして、顔を赤くしてタナに上げていたものに気づくわけです。



 ボクなんかは、

 他人どころか犬や猫や草や木なんかからも学ぶことが多いんですけど、

 なかなか素直にはなれないものですね。



 先に、文字通りとるのもいい、と書きました。

 こういうことなんです。

 人の行ないを見て、ヤダ。と思うことがあったらそれをやらない。

 これを厳格に守り続けたらいいんです。ただし、問題が起きる場合がありますね。

 ボク自身がそうなんですが、自覚がなくただ厳格である。というのは、

 他人に対しても狭い厳しさを要求してしまいがちであるということです。

 ボクなんかの場合ですと、他人に対しては厳しくとも自分に対しては甘いわけで、

 それでなんとか生きていられるようなもんですが、

 自覚のないまま厳格に生きていくというのは、非常に息苦しく思うんですね。

 自覚があれば、今回は特別に目をつぶってもらうけど、今回だけでもうしません、

 って方法(にげみち)もあるんです。

 もちろん、人間楽なほうがいいですから、今回だけじゃ済まないんですけどね。

 でも、自覚があれば本質のところまで崩してしまうような許し方はしないんです。

 ところが、自覚がないとなるといくところまでいく。

 というより、どこまででもいってしまう。

 厳しい家庭で育って、イイ子だったのが急に変わってしまうという場合がありますね、

 これなんです。

 自覚する前にタガがはずれちゃうんです。

 おおまかに言って、

 日本人というのは自覚のないまま伝統を守ってきたといっていいでしょう。

 そして、最近そこらじゅうでタガがはずれ始めていますね。自覚のないまま。

 心配症のボクとしては、これは眠れぬほどの憂いなんです。

 人が見たらコッケイに映るかもしれませんが、

 ボクは自分のことはタナに上げて、

 あせるような思いでこんな文章を書きはじめてしまったのです。




 哲学(がくもん)と宗教(げいじゅつ)

 パラノイアという言葉があるそうで、これは体系的な妄想だそうですね。

 これを巧妙かつ肥大化させたものが、

 今の宗教とか哲学と呼ばれるたぐいのもののようです。

 哲学というものを、人の生きる道。といいますか、

 人はどうあるべきかを示す学問だ。

 などと思っている人が多いかと思いますが、

 これが勘違いのモトですね。

 哲学というものは学問全般を指す言葉だったそうです。

 
学問とはなんでしょう。自覚するためのものなんですね。

 人間は外界のものを見たり感じたりして自分を自覚していくんです。

 外界のものを追求していくことにより、

 人間というものを知ることができるんですね。

 ところが、外界そのものがかなり興味深いんです。

 そして、外界を見つめること自体が目的になったものが独立した学問となり、

 自分のところまで戻ってくるものだけが哲学と呼ばれ続けている。

 といっても、人間の身体そのものに興味を持った学問は、

 哲学でなく医学、などというふうにどんどん独立し細分化しています。



 話を戻しますと、

 学問(哲学)というものは人はどうあるべきか、を考えるものではなく。

 どういうものか、に気づくためのものなんです。

 ただ、この部分で発表しても、あまりカッコよくないんですね。

 たとえば、ボクのこの文章みたいなもので、

 読む側の人としては、どうしたらいいの?という気分になっちゃうんです。

 書く側としては、そのことにも応えてしまう。

 読む側として頭に残るのは、どうすべきか、の方なんですね。

 ところが、これは人それぞれで違うんです。

 このいちばん重要なところが抜けてしまっているんですね。

 そしてボクに言わせれば余分なところだけがひとり歩きしている。



 だいたい哲学というものを積み上げていくものだと思っちゃいけません。

 積み上げていって完成した。と思い込んだところで、

 それはパラノイア以外のなにものでもないんです。



 どうあるべきか。でなく、どういうものか。を知るためのものですから、

 ゼロに向かわなくちゃいけないんです。根ッコの部分ですね。

 ところが、これは自覚がないだけで、みんなもっているんです。

 この根ッコの一部分を持ってきて、もう少し正確に記せば、一側面ですね。

 それをみつけてきて、信じなさい。とやったのが今ある宗教です。



 元々は、もっと自然に、

 教えというよりは、

 その根ッコの部分を忘れないための儀式として起こっているはずです。

 ですから、哲学なんてものが起こるよりも前、

 もっと人間が生(ナマ)だったころから始まっています。

 ボクは、宗教なんて罪だよなぁ。と思ってるような人間なんですけども、

 宗教というものが哲学なんかよりも昔からあり、

 しかも、いろいろな形で残っているということは事実なんですね。

 したがって、肯定的にとらえるべきなんです。

 すると見えてくる。

 信じる、ということが大切なんですね。

 信じる(肯定的に考える)ことから本当のことが見えてくるんです。

 どうも頭というのは、

 コッチを信じる。という方向性がないと

 答えを見つけられない、といった程度のシロモノのようですよ。



 この、信じる。ということから始まって、根ッコの部分に触れる。

 ということが大切なんです。

 ところが、これも哲学と同じで、

 聞く側としては根っこへ向かうための思考ということをせず、

 信じるきっかけとなった物語(パラノイア)の内容だけが頭に残るんです。

 そして、物語そのものを信じてしまうんです。

 言いだした人が違えば、物語が違いますから、

 それぞれの聞く側の人たちの間に争いが起こります。

 哲学のパラノイアというのは、

 そうか!と頭で勘違いしているぐらいのものですが、

 宗教のパラノイアというのは、

 まず信じる。というところから始まっていますから、

 パラノイアであることに気づくのに相当なインパクトがないと難しいんですね。

 まがりなりにも根ッコの、ある一側面を示した物語ですしね。

 言ってみれば、他人のパラノイアをただそのまま信じてしまっているんです。

 これを洗脳と呼んでいるんですね。

 このあたりで、はじめのころにでてきた、

 
いい影響・よくない影響、というところを思い出して

 ビビッときていただけると、ボクとしては非常にうれしいんですけど、

 どうでしょうか。



 根ッコの部分、ゼロに向かうものが哲学としますと、

 ゼロからの発信を表したものが宗教です。

 この仲間に芸術がありますね。

 いっそ、哲学(がくもん)と宗教(げいじゅつ)と呼びたい。



 ボクの少し上の年代ぐらいの人にとって、

 吉田拓郎・井上陽水というのは巨頭だと思うんですね。

 音楽自体が芸術なんでしょうが、

 詩を見てみると拓郎さんの詩というのは哲学(がくもん)的ですね。

 そして陽水さんのものは宗教(げいじゅつ)的に思えます。



 こういうことを書きますと、

 何でもどうにかして分けてしまいたくなる人がいるんですけど、

 困っちゃいますね。

 これ、分けること自体なんの意味もないんです。タトエなんですね。

 こういうふうに書くとビビッとくる人がいるかな、

 と思って書くだけのことなんです。

 だから、ここでビビッとこない人は、

 余計なこと書くなよなぁ。ぐらいに思ってもらったらいいんです。



 さて、ここでどうしても言っておかねばならぬな、ということがあります。

 哲学・宗教が自覚への道なりヒントだとします。

 しかし、自覚は人生の目的ではありません。

 人は、生まれたから生きるんです。

 なんのために生きるかは自分が決めるんですね。

 それを決めるのに自覚してるといいんじゃないか。と、

 ボクなんかは思うんですが、どうですかお客さん。

 と、すすめてみてるだけのことなんです。

 すすめてる本人は、ケッコー切実なんですけどね。




 評価する基準

 ボクが過敏なほどに気にしているのは、

 自覚のないまま生きている人が多い。ということではないんです。

 あまりにも浅い皮肉の部分

 ストップした人が多すぎるということなんです。

 今の学校教育がかなりそれに貢献していますね。

 といっても枝です。幹は、やはりそれ以前の家庭でのしつけです。



 しかし、ボクは学校というものに、かなりの敵対心があるようなんですね。

 高3のとき、学歴社会に反発するため。

 なんていって、やめてるぐらいですからね。

 そんなわけで、このあたりから始めましょうか。



 偏差値偏差値と騒いでいるようですが、

 ボクのころはそのハシリだったようで

 過敏すぎるボクに反発はありましたが、深刻ではなかったですね。

 それでも中学は学年で600人というマンモス校で、

 テストのたびに学年順位がでるんです。

 発表されるんじゃなくて、自分の順位だけを知らされるんですね。

 それがグラフになっていまして、

 ボクの場合100から300ぐらいを大きく動いていたんです。

 動きが大きいもんですから眺めるには変化があっておもしろいんです。

 しかし、担任の立場としてはおもしろがってもいられなかったようで、

 母親に言ったそうです。

「お宅のお子さんは勉強にムラがありすぎる」

 ボクがどういう生徒であったかといいますと、

 テスト勉強というものを一切やらなかった。

 テストのためにモノを覚えるということに、

 なぜか疑問をもっていたようです。

 そのときはまだ、学問は自覚するためのものだ。

 などと教師に反論するだけの能力はありませんでした。

 根ッコを感じつつも、

 説明できるほど頭の中で構築されてはいなかったわけです。



 その頃の一般生徒の勉強方法というのは、

 教師が重要だといった部分をテストの前に丸覚えしてきていただけなんです。

 年間に8回の大きなテストがありました。

 実力・中間・期末・実力・中間・期末・実力・学年末と呼んでいました。

 通知表へのウェイトは、

 実力が10%中間が40%期末が50%ぐらいなものだ。

 ということはみんなが知っていました。

 そういうことを教えてやることがやさしさだと、

 勘違いしてた教師がいたわけですね。

 すると、一般生徒というのは実力テストは手を抜くんです。

 ボクは年中手を抜いているもんですから、

 相対的に実力テストの順位が上がるわけです。

 別の視点で見てみますと、ボクはいつも70点ぐらいなんですね。

 そして、実力60点、中間・期末70点と平均点の方が動くんです。



 ボクのテスト用の勉強にはムラの生ずる可能性がないんです。

 ついでに言えば、

 どれだけ一生懸命やったって、ムラとはいえないまでも差はできますね。

 ボクは一切やらない。

 この担任は、もしかしたら

 テストに対する勉強のムラが世界でいちばん少ない生徒の母親に対して、

 ムラがありすぎる。と、

 変動の激しいボクの成績表を指して言っちゃったんですね。

 そのとき母親がなんと応えたのかは知りませんけど、

 そのことを聞かされたボクは、見えてないな。

 なんて笑えるほど人間ができちゃいなかった。

 ま、今でもあまり変わらないんですけどね。



 このときは教師というものをすべて軽蔑しましたね。

 分かりますか。

 教師なんてみんなこんなモンだ。と、狭くとらえちゃうんです。

 いや、もっと、大人なんてウスッペラだ。とまで思ったでしょうね。



 ところが、この担任の先生というのは、

 ボクのキライな機械のようなタイプとは違っていたんです。

 1年が過ぎるころには、ボクを認めてくれていました。

 そのおかげで、人間、一度誤解されたからってそれで終わりではないんだ。

 自分自身を通せば、いずれ分かってもらえるんだ。

 という自信を持つまでにはとてもとてもいかなかったけれど、

 なんとなく、分かってもらえるときがくるものなのではなかろうか、

 というぐらいの姿勢にはなれたんだと思っています。

 そして、間違ってはいないようだぞ、とね。



 人間というのは、認められるとうれしいものなんですね。

 認めてあげる。ということは、とても大切なことなんです。

 そして、まずは自分自身を認めてあげられるか、でしょうね。

 自分のモノサシでしかモノがはかれないんですからね。

 肯定的にみてやることで、

 本当の自分自身がハッキリと見えてくるんです。

 モノサシにはクセがあります。

 そのクセを知っておかないと正確にモノをはかることはできないんです。




 素直な言葉

 ボクが高校を辞めたときの話をしましょうか。

 これも、ちょっといい話ですよ。



 高2のときの担任がいけなかった。情けないような人だったんですね。

 生徒の進路をアミダクジで決めさせようとしたんです。

 定員という点で、誰もが希望通りにはならないということはしかたないとして、

 アミダはないでしょう。

 ボクは変わり者ではありましたけど、おとなしい生徒だったと思いますよ。

 でもスジの通らないことにはかなりこだわりましたね。



 そんなとき、それはおかしいよ。と、助け舟をだしてくれた先生がいたんです。

 兵藤先生といいましてね。

 かなりクセの強い先生で、

 卒業式ではやられるだろうってウワサが毎年たってるような先生だったんですけど、

 ボクは好きでしたね。

 ほとんど接点はなかったんですけど、

 なんでも口をだす先生だったもんですから何度か口をきいたことはあったんです。

 ボクが辞める。と、職員室に報告しに行ったとき、

 担任がたまたまいなかったんです。

「どうした、中村」

 この兵藤先生が声をかけてきたんです。

 ボクはいろいろと力説したんです。カッコつけてね。

「今の自分は甘えてると思う。このままじゃいけないんで辞めます」

 とかなんとかね。

 なにがなんだか分からないでしょう。

 ジツは、ボクもあまりなにをしゃべったのか覚えてないんです。

 ただ、このときの兵藤先生の言葉だけは覚えています。

「今の自分が甘えてるってことに気づいたことだけでも立派だ。

 でもな、そう思ったら今の環境の中で自分の甘えを直すことを考えろ」

 そんなような意味だったと思うんですね。

 ボクはこの日、説得されて帰ったるという形になっています。



 それでも翌日、また職員室に行ったんですね。

 今度は幸い(?)担任の先生がいたんです。

 この高3のときの担任というのはいい先生でしたね。

 もっとも、付き合いは2ヶ月と短いんですけどね。

 この時期、辞める。と、世間に公表してから10日以上が経っています。

 担任もまた善戦しましてね。

 この日もボクは言いくるめられて帰るのか。

 というような状況になっていたんです。

 ところが、最後の言葉としてとっておいたというわけではなく、

 ふと、口をついてでた言葉があるんです。

「辞めるって言ってから、辞めてから後悔するだで(するんだからー三河弁)って

 いろんな人から言われたんだけど、

 オレ、後で、なんで辞められなかったのかって後悔する方がつらいんです」

 こう言ったんですね。

 担任は「そうか」って、あっさり言っちゃったんです。

 分かりますか、

 どれだけ繕ったところで、造った言葉は人の心には届かないんです。

 ところが、無防備であっても、素直な言葉っていうのは人の心に響くんですね。


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