自覚のすすめ 目次

  自覚のすすめ
  自覚と洗脳
  寄生虫のサガ
  自分のことをタナに上げるについて
  人のふり見て我がふり直せについて
  哲学と宗教
  評価する基準
  素直な言葉
  学校で習ったこと
  条件あっての答
  現実での反応
  反省のすすめ
  ゆとりのすすめ
  良心というもの
  かさぶたはハテナの母
  しつけについて
  環境というもの
  考える機会
  再び、しつけについて
  教育について
  母親の自覚
  オスについて
  幸せ者の条件
  自覚の原点
  幸せの性格
  歴史のお勉強
  数学のお勉強
  これからの流れ



著者に一言、言いたい方は、こ・ち・ら 

著者に二言三言、言いたい方は、こちらです




 教育について

 ボクは、しつけと教育というのは同義だと思っているんですが、

 ヘンテコな言葉がありますね。

 戦後民主主義教育。

 カンタンにかたづけてしまえば、これは民主主義教育ではない、ということです。

 違うものですから、頭に戦後をつけて区別しているんですね。

 民主主義社会の一員にするためには、

 自己責任という考え方を叩き込むという教育が必要なんですが、

 ここのところを省略しちゃって

 民主主義という物語だけを聞かせたのが戦後民主主義教育なんです。

 日本民族というのは、

 どうも思想的なものをヨソゴトのように知識として覚えて大事にしまっておく、

 というような体質があるようです。

 ですから、血肉にならないんですね。

 どうしても日本的なものになってしまうわけです。



 戦後民主主義教育というのは、

 昔の日本的なものの否定をセットにしておりますので、

 教育的なものがすべて消えてしまったわけです。

 とはいえ、こういうものは霧のようにパッと消えてしまうものではありませんので、

 少しずつ変質してきたといえるわけです。

 そんな情況変化をダラダラと書いてきたわけなんですが、

 こういう話はむずかしいですね。

 こういう話というのはどうしても該当者にとってツライ。

 該当者にナンの罪もないわけです。

 ただその時代に生まれてきたというだけのことなんです。

 ところが、ナンにも悪くないのに責められているような気分になるんですね。

 人間の心というのは、そういうものなんです。

 すると反応が正常でなくなります。

 スゥーと素直に認めることができにくくなるんですね。

 自覚というのは、現状をありのままに認めるというところから始まるわけです。



 どうしましょう。

 自分から離れればいいんでした。

 人のふり見て我がふり直せという言葉について触れたことがあります。

 他人の行ないならどうでしょう。

 なかなか他人の行ないから自分の欠点を見つけだすなんてことはできるものじゃないですね。

 我がふりを直すということは、

 良くないことを直すわけですから、

 その見本を見せつけてくれる相手というのは気に入らないものです。

 そんなヤツのイヤなところにこそ自分との共通点がある。

 なんて、認められますか。

 できにくいものです。

 どちらかといえば遠ざけてしまいますね。

 ヨソゴトであればあったで、このように避けてしまうのが人間のようです。

 人間というのは、かくも愚かな生きものなんですねぇ。



 愚かなるがゆえ、かどうか。うまいことできているものです。

 子は親の鏡といいます。

 どうも、立派になったから親になる。という公式はないように思います。

 みなさんは反抗期などで、親の言葉を素直に聞けなかったことなどはありませんか。

 そのときは突っぱねたものの、頭の中に残っている言葉というものがあると思います。

 これがビビッときた、ということです。

 心に響くというか、心に刺さる、なんて言葉もありますね。



 人間は、子供を育てて一人前なんだ。と母親に言われたことがあります。

 当時、それに反発したわけではありませんし、

 子供を育てないで一人前になろう!なんて決意をしていたわけではありません。

 だいたい、ボクは一人前になろうという気があるのかどうか疑わしいような人間なんです。

 まぁ、これはさておき、

 人間というのはなかなか他人のふりを見て我がふりを直すなんて

 シュショウな姿勢にはなりにくいものなんですね。

 ところが自分の子となるとどうでしょう。



「そんな子に育てた覚えはない」

 そう言ってみたところで育てたのは自分ですし、遠ざけるわけにもいきません。

 教育するということを自分自身の発見の旅と考えますと、

 子育てもずっと楽しいものになるようにも思えますが、

 これもまたできにくいものなんですね。

 近すぎますから。



 ボクがおもしろいなぁ。と思うものにこういうのがあります。

「子供には同じ苦労をさせたくない」

 よく聞くわけですが、

 ボクのイメージとしてはある程度成功した人から聞くように思うんです。

 賢明な読者はすでにお気づきと思いますが、

 その苦労があってこそ今のその人があるんです。

 子供にも同じような苦労をさせた方がいいに決まってますね。



 1994年に氷温熟成という言葉がはやりました。

 イキモノというのは凍りそうになると、

 ナニクソッとガンバッてエネルギーを出すそうで、

 それがおいしさになるそうですね。



 我々人間もイキモノなんですね。苦しいときにこそ知恵が湧くんです。

 ちかごろ、無味無臭といいますか、機械のようなといいますか、

 味気のない人間が多くなったように思うんです。

「あのおじさん、いい味だしてるぅ」

 などと、味もそっけもない娘たちが口にします。

 戦後民主主義教育のおかげで苦労なく育ったこの子たちは、

 個性を持ち物でしか発揮できなくなってしまったかのようです。

 そして、その身に着けるものを買うために売春行為をしているそうですね。



 援助交際というそうですね。

 援助する側に批判が集まっても反論はできにくいでしょう。

 しかし、援助を受ける側はもっと深刻であるべきです。

 ボクなんかは、

 もう援助交際でも何でもしたらえぇ、それをコヤシにしたらええんや。

 なんて、つい投げやりな言い方をしたくなります。

 ただ、ボソッと一言いっておきたいのは、

 使った肥料は明記できた方がいいですよ。ということです。

 母親になったとき、自分の色が子供にうつります。

 色があるということはしょうがないんです。

 生きていたらつくんです。

 でも、それが説明してあげられないと、

 その子は訳のわからないままその色を一生背負って生きていくことになるのです。

 最近は子供を生もうとしない女性が増えています。

 こういった風潮も娘たちにとっては追い風になっています。

 世の中のことというのは、

 このようにあらゆるものがリンクしあって動いているのです。



 覚醒剤なども問題になっているようですね。

 日本では一口に麻薬といってしまいますが、

 覚醒剤とマリファナなどとは明らかに違うもののようです。

 人によってはマリファナはタバコより害がない、などといいます。

 ところが覚醒剤というのはとても恐ろしいものなんです。

 米の研ぎ方のところで少し触れましたが、

 最近の若い子というのは自分でモノを考えるという訓練をしていませんので、

 入ってきた情報をそのまま引き出しにしまっておくだけで

 モノゴトをつなげて考えようとはしません。

 違う情報が入ってきても、

 矛盾だ。などといってかたずけてしまうわけです。

 麻薬はいけない。

 マリファナはタバコより害がない、

 こんな2つの情報が入ってきたとします。

 前者は多分に法律的に良くないという漠然としたイメージに受け取っていることでしょう。

 後者は表現の趣旨をはかりかねますが、

 ボクは、肺ガンなどの病気になるような可能性が少ない。と判断しますが、

 若い子たちは四捨五入して、

 ただ、安全と受け取っていることでしょう。

 友人あたりから覚醒剤を勧められたとします。

 この子の感覚としては、みんながやってることだから、

 悪いことなんて大人はみんなやってるんだから。と、まず前者をかたずけます。

 そして、覚醒剤=麻薬=タバコより安全。

 こうなってしまうんです。

 まさか覚醒剤が脳の血管を拡張させ、

 神経を興奮させるものだとは夢にも思っていないんです。

 こんな刺激を繰り返していれば、脳の血管は伸びきったままになり、

 同じ量では当初の刺激は得られなくなります。

 そして、しだいに摂取量が増えていくわけです。

 これが、人間を廃人にまで追い込んでしまう覚醒剤の恐ろしい副作用です。



 因数分解を覚えることと、こういった知識を身につけることと、

 どちらが大切なんでしょうね。



 モノゴトを正確に把握するということと、

 教えられたことを教えられたとおりに覚えるということとは違います。

 身につかなければ役に立たない荷物なんです。

 役に立つもの、それは体験からくる知恵です、

 苦しんだり、つらい思いをして、生きものは知恵を身につけます。

 役に立たないものを覚えるな、と言っているのではありますん。

 せっかく覚えたんだからその知識を役に立てたらどうでしょうか、という話です。

 ついでに言っておけば覚醒剤は体験したからといってコヤシにはならないということです。

 なんだか枝葉の話に花が咲いてしまいまして、

 根ッコに向かうのを忘れてしまったかの感がありますが、

 忘れているわけではないんです。ですが、

 人間というのは表面的なもの、

 目先のものに興味がいきやすいようにできているようなんです。

 ですから、若者が表面的なとらえ方をして過ごしてしまうというのは

 自然ともいえるんですね。



 ほうっておいては手がつけられなくなるのが人間です。

 教育が必要なんですね。

 覚えた知識を生活に結びつけるという訓練、そんな教育をしてあげたいものです。

 その点、今の学校教育はあまりにも手を広げすぎてしまったようで、

 駆け足で通りすぎるのがやっとのようです。

 アッ、またこの話になってしまいました。





 母親の自覚

 根ッコに向かいましょう。

 人はナンのタメに生きるのか、十字以内で記せ。

 もしこんな問題を出されれば、

 『人それぞれで、違う。』

 とでも書くしかありません。

 ですから、自覚するしかない。

 自分というものを見つめるしかないんです。

 そして、自分にしかできないものを見つけだしたら、それがその人の答えです。



 自分にしかできない生き方。

 などと言われますと、私にはそんな特別な才能はない。

 などと、つい大それたことを考えてしまいがちです。

 しかし、どうでしょう。

 たとえば、花子さんが太郎さんと平凡な(あえてこのコトバを入れます)家庭を築く。

 ということは、この2人にしかできないんです。

 相手が咲子さんであったり次郎さんであったんではできないんですね。

 花子さんと太郎さんの築く家庭というのは、この2人にしかできないんです。

 ボクのいうオリジナリティーとはこういうことを指します。



 人間というのは色のついた人間(親)に育てられるからこそオリジナリティーがあるんです。

 ですから、その色を隠そうとせず、認めることが大切です。



 ここでボクはサーヴィスのつもりで具体的なことを書きます。

 こういう言葉は読者の頭に残りやすいものです。

 ですから、先に言っておきます。

 これは根ッコではありません。

 幹です。

 根ッコに近い幹です。

 松でいいますと、地面から見えたり隠れたりしている根のようなものでしょうか。



 では、いきます。



 自分の色を知るには、親の色を知ることです。



 三つ子の魂百まで、という言葉があります。

 まいどの広辞苑でも小学館の出していることわざ辞典でも、

 幼いときの性格は一生変わらない。

 という表現で終わっています。

 しかし、押さないときからしつこい性格のボクは、

 その幼いときの性格とはどこから来るのかということの方に興味がいきます。



 それが環境です。

 これまでに書いた環境というものは、

 世間といった意味にかなり近いものだったかと思います。

 しかし、幼児期の子供にとっての環境というのは家庭ですし、構成は家族です。

 そして、赤ちゃんに近づけば近づくほど母親の占めるウェイトが大きくなります。



 そこで母親の自覚です。

 が、これはどうも目覚めるようにできているようです。

 自分の子供が泣きますと、

 おっぱいを出させようとするホルモンが活動するようになっているそうですね。



 ただ、最近では母乳で育てないという母親が増えていると聞きます。

 赤ちゃんにとって、母親のスキンシップが大切であるということは周知の通りです。

 しかし、今、本当にスキンシップが必要なのは赤ちゃんよりも母親の方かもしれませんね。




 オスについて

 ボクのようにだらしのない男がいけしゃあしゃあと生きておりますと、

 女性としては、自らが立たねば。と、

 自立を自覚する機会が増えるかもしれませんね。

 そして、社会参加を男と同じようなスタイルで始めるわけです。

 すると、赤ちゃんとのスキンシップが弱くなるというのも、また当然といえます。



 このように、モノゴトの変化には必ずその理由があるのです。

 女性が急に子育てを嫌がるようになったり、苦痛に感じるわけがないんですね。

 それは、世の男どもが勝手気ままに暮らし、子育て家事一切を女性に押し付けた。

 という感覚を女性が持つに至ったからです。



 それはなぜでしょう。



 男女平等なる言葉が広がったのはいつの時代でしょうか。

 これが、伝統を守り続けることに自信を失った時期と重なるわけです。



 女は子宮でモノを考える。

 という言葉を女性の口から聞いたことがありますが、

 男女平等なる思想により、

 男と同じように頭でモノを考える訓練を受け過ぎたセイでしょうか、

 本来持っている芯の強さからくる賢さ、

 こちらの方をのばす訓練を怠ってしまっているかのように思えます。

 これは、頭が鎌首をもたげてくる前に行った方がいいように思われますが、

 最近の女の子は、ママゴトをさせてもらえる機会はあるのでしょうか。





 自由なるモノの勘違いした受け入れにより、男の世界にも大きな変化があります。

 一瞬ヨコミチに逸れますが、

 世にいう子供の人権についてなどという言葉を聞きますと、

 チャンチャラおかしくてヘソで茶を沸かせるんじゃないかという錯覚すら抱きます。

 そういうものは犬にだってアリにだってあるんですね。

 人間の赤ん坊ほど生きるのに非力な状態で生まれてくるものはありません。

 これは、考え方を変えれば、育て方ひとつでどのようにでも伸びる。ということですが、

 食べ物だけを与えてしつけもせずにホカっておけば手の付けられないものになる。

 という裏返しでもあるんです。



 ここで戻りますが、

 どうも男というのは、自然に父親の自覚が芽生えてくるというものではないようなんです。

 男というのはホカっとけばジツに男らしくなります。

 ボクのいう男らしいは、世間に言う男らしいとは正反対ともいえるものを指します。

 男というのは、存在自体がフラフラしたものでして、

 身勝手にして無責任、そのくせ常に怯えたような落ち着きのないものなんです。

 それをなんとかモノにしようと知恵をしぼってできたのが社会のしくみなんですね。

 男などというものは、仕事でもさせとかないと、人生をもてあますような存在なんです。



 男らしくとか、男としてとか、

 言動を慎ませる、もしくは卑怯な振る舞いをさせないための言葉が無数にあります。

 なぜでしょう。

 男というのは、それほどあらゆる角度から縛り付けておかないと、

 なにをしでかすかわからないんです。

 小さいときから、

 社会的な責任だとかなんとかいったようなものを植え付けて

 おいてその気にさせておかないと、

 いくら自分の奥さんに子供ができても、

 いつまでたっても大きい子供のままで父親の自覚などというものはできないんです。





 女が強くなった。という言葉も、すでに古いかもしれませんが、

 ボクの感覚から行きますと、太古の昔から強いんです。

 この強いというのは、あらゆる面で強いんですが、

 特にここでは主導権があった。

 というニュアンスで受け取っておいてください。



 これは、蛮勇を奮って申し上げるわけですが、

 現代女性の意識の変化をボクの感覚で述べますと、

 ズバリ、女がバカになった。と言うしかありません。



 ボクは、男なんてものは消耗品のようなものだと考えています。

 ボクが喫茶店などで学生たちにまざってアルバイトをしていたころの話ですが、

「オレ、思うんだけど、何で人間って男系なのかなぁ。女系の方が自然だと思うんだけど」

 質問するともなくつぶやいたことがあります。



 もともとはそうだったんですよ、

 今でも文明を入れずに昔のスタイルで暮らしてる民族は女系らしいですよ。



 こう答えてくれた学生がいます。

 先日、ある集まりで、

 特に南米を幅広く旅した。という方と話す機会がありまして、

 同じようなことをつぶやいてみたところ、心強いお言葉が返ってきました。

 「そういう民族をたくさん見てきた」





 統計をとったわけではありませんが、

 ボクの想像からしますと、女性にムチで叩かれて喜ぶ男性というのは少数派であって、

 通常はアメをもって動くものでしょうね。

 だいたい繰り返しが重なりますと、巧妙になっていくものでして、

 直接アメを見せるより、おだてておいてその気にさせたほうがいい、

 というところに落ち着いたんでしょうね。

 そして、ものでつられるより、無償で動く方がエライ!と、

 子供のうちに入れ知恵するわけです。

 「なんだ、オレは使い捨てか」

 男にこのことを気付かせないための工夫が施されていきます。

 どんどんオブラートを厚くしていくわけです。

 このことはわかりやすくするためにムリに言葉にしていますが、

 おそらく女性は言葉や頭などよりももっと奥の部分で

 (これを子宮という表現で言っているのでしょうが)

 悟っているのだと思います。



 女性が頭でものを考える訓練に励みますと、

 オブラートの中身はわからなくなります。

 どうも、ボクの耳に入る世間の女性の行動というものは、

 表面的なアメやムチの部分で男性に接しているのではないかと思えてならないんです。



 子供のうちに、一家を支える大黒柱になるんだ。などと、

 いいようにおだてられて、その気にさせられることなく育った男が、

 父親の自覚を持つことのほうがおかしな話でして、

 そこへ持ってきてアメをしゃぶらされても、

 それに付随する責任を果たすわけがないんですね

 まして、ムチなどを握られた日には、逃げるしかないんです。

 男というのは、それほどかぼそく、無責任であり、

 フラフラしたものなんです。

 いってみれば芯がないんです。



 人間というものは、目的があって生まれてくるわけではありません。

 立場を持って生まれて、初めて目的を見つけることが可能なわけです。

 目的より生まれることの方が先なんです。

 女性にはその生きものとしての機能が備わっているわけですが、

 男性というのはその永遠の営みに一瞬しか、

 まぁ、時間をかける方もいらっしゃるかとも思いますが、

 ほんの一瞬しか参加できないんですね。

 オスというのは、そういうはかない存在なんです。




 幸せ者の条件

 いくらフラフラしていても、自分のことですから、

 己のはかなさを知っているんでしょうか。

 男というのはモノを残したがりますね。

 やたらと大きな建造物を造ってはうれしがるというところがあるようです。



 これまでのパターンでいきますと、

 ここで

 不必要なダム建設・維持費のかかりすぎる公共ビル群・利用者を無視したナントカホール等、

 建設することだけが目的という奇妙な日本の行政に喰ってかかるところなんですが、

 かろうじて、その衝動を抑えております。

 エライ!?





 ボクの父というのは、幼いときからつらい思いに耐えてきた人のようです。

 こんな息子を持ってしまったわけですから、

 つらい思いがますます重くなることはあっても、軽減されたことはなかったでしょう。

 ほとんど自分の意見らしいものを言わなかったように思いますが、

 ボクは、年をとるごとに父親の気質を色濃く受け継いでいるなぁ。と、

 うれしくなります。

 これも当然のことです。

 ボクの少年期というのは、

 まだテレビは一家に一台という時代だったと思います。

 そして、そのチャンネル権は父親が持っていたように思われます。

 その父親の見るテレビといえば、

 清水次郎長であったり、水戸黄門であったりそういったものです。

 暮れになれば、必ず忠臣蔵です。

 おわかりですね。

 そんなものばかりを見て育てば、価値観はおのずとそちらの方に傾きます。

 ボクがテレビは啓蒙的であるべきだ、という根拠はこのあたりからきています。



 ボクは中学の頃でしょうか、世界一の不幸者だと思っていました。

 そのころは父親がキライでしたね。

 いつのころからか、父親を尊敬するようになりました。

 父親が変わったんじゃないんです。

 ボクの中身が変わったんです。

 何歳の時なのかはハッキリしませんが、なにが変わったのかはハッキリ言えます。

 世界一の幸せものだと思えるようになったんです。

 自分のことが好きになってきたんですね。

 なんだか訳の分からない言葉になりますが、

 ボクが当たり前だと思ってやっていることが、

 どうも人にはなかなかできないことのようなんです。



 そんなカッコのいい話じゃないんです。



 たとえば、ボクはタイムカードを押す職場で何度か働いたことがありますが、

 必ず着替えてから出社のタイムカードを押しました。

 これは当然のルールだと思いますが、

 チェックされていないとわかっていて守っている人はまずいないでしょうね。

 飲食店などのアルバイトですと、

 何時から何時と決まってはいても、忙しくて帰りづらいことがあります。

 そんな場合でも、責任者が気をきかせてくれて、

 帰っていいよ。と、言ってくれたとします。

 それでも自分の意思で残る場合は、

 コソッと抜け出して、退社のタイムカードを押して職場に戻っていました。

 こんなことをするのは、誰が考えてもバカです。

 おもしろいことに、世間で、オマエは幸せなヤツだな。

 といった場合の意味も、バカなんですね。

 ご多分に漏れず、ボクはよくそういわれます。



 ズルイことができない自分が損だと思っていたころのボクは、

 世界一の不幸者だと思っていたわけです。

 ところが、損だと思わなくなったわけですね。

 周りがボクのことを認めるようになってきたんです。

 アイツはこういうことをしてくれる。ではなく、

 アイツはこういうことはしない。という認め方です。



 タイムカードの話は、わかりやすいように具体的な例として書いたわけですが、

 現場を目撃されたんではちょっと照れくさいので、

 誰にも気づかれないようにやったつもりです。

 でも、仕事に対する姿勢といいますか、生き方というのは

 あらゆる場面に現れているんです。

 人はそれを感じ取るんです。



 人間というのは弱いものですので、人の好意をアテにするところがあります。

 しかし、もっと根ッコに近い生きものの部分で、

 自分に害を与えるかどうか、という判断をしているんです。

 たぶんこれには、具体的な事例は必要ないんでしょうね。




 自覚の原点

 箱モノ行政に対する批判という話になだれ込むことは事前に避けたのですが、

 どうも少し、自分のオモワクとは違う話になってしまったようです。

 ジツは、自覚の原点、親の色についての話になる予定だったんです。



 ボクの母や親というのは、

 その母だか祖母だかがお姫様だったそうなんです。

 むかしは刀なんかもタンスに入っていたなんて話も聞きましたが、

 こういう話はあっちこっちにありまして、

 その話だけで鵜呑みにするわけにはいきません。

 だからといって調べる気もボクには起こらないんです。

 ここで大切なことは、事実ではなく真実です。

 ボクの母がそのことを信じてそれらしく振舞おうと生きてきたかどうか、

 ということなんです。

 どうもこれがYESのように思えるんです。



 江戸時代の終わり、明治維新ですね。

 この時代に活躍した人たちはどういう人たちかといえば、

 家計図のしっかりした人たちというよりは、

 サムライの教育を代々受け継いできた人たちといえるようです。

 そして、正式な身分がサムライでなかった人のほうが、強烈な働きをしていますね。



 ここからは、司馬遼太郎さんの本からの受け売りです。



 長州の騎兵隊というのは、お百姓さんたちです。

 ところが、長州のお百姓さんは、

 もともとはサムライだったという気持ちを維持していた人たちなんです。

 長州の毛利家は、関が原のときは、

 今でいう中国地方を領土にしていました。

 それが豊臣方に担がれて、立場上反徳川の最たるものになってしまい、

 今の山口県一県に閉じ込められてしまったわけです。

 お米で給料を払っていましたから、土地が減れば養える人数も減ります。

 そのとき、

 百姓でいいから。と、殿様についていった人たちなんだそうです。



 土佐の海援隊もそうですね。

 これは長州とは逆に、もともと土佐に居た人たちです。

 関が原以降山内家が入ってきたわけですが、

 その前の長曾我部家の家臣たちで、

 サムライでありつつも山内家の家臣からは、

 虫けらのような扱いを受け続けていたそうです。



 薩摩は、といいますと、

 これは、関が原で反徳川でありながら、

 領土を減らされなかったという戦闘集団で、

 江戸期でもその緊張感を保ち続けた、という藩なんだそうです。



 逆に幕臣というのは緊張感がなく、緩みっぱなしでした。

 長州や土佐のような、ナニクソッという気分がないんです。



 人間というのは、ある程度の不満といいますか、今に見てろ!みたいな

 緊張感を持っているほうが、生きものとして健全なようにも思えるんですが、

 ちょっと、話が迂回しすぎたようです。

 ボクがいいたかったのは、

 証拠であるはずの刀がないことが、母親をより精神的に高めたのではないか。

 と考える、ということです。



 そして、父親同様母親もまた幼いころから苦労の連続で、

 ヨソゴトなど考えている暇はなかったようです。

 このことも、緊張感をたもちえた理由の大いなる部分といえます。

 何がしたいかでなく、何をすべきかで生きてきた人なんです。

 こういう人は表面的には笑っていましても、

 本当のところは人が許せないタイプなんですね。

 当然のことながら、ボクはこの部分を濃厚に受け継いでおります。

 人間というのは、自分を基準にしてモノを考えますので、

 やるべきことをやらずに、やりたいことをされたりなんかしますと、

 裏切られたような気になるんですね。



 そんなボクがよく人から言われるんです。

「オマエは、やりたいことがやれてうらやましいよ」

 なんだかわけが分からなくなってきました。




 幸せの性格

 いかに人間が身勝手なものかということを、

 これほど正確に表した例もないかと思いますが、

 とにかく、本人はなんだかわけがわからないまでも幸せだ、と言うんですから、

 これほどケッコーな話はありません。



 ボクはバランス感覚がよかったり、手先が器用にできていまして、

 だいたい何をやっても、始めのうちは上手いんです。

 ただ、努力ということができない人間で、飽き性でもあるんですね。

 それで、すぐに追いつかれ追い越されてしまう人間なんです。

 何が言いたいかといいますと、

 努力のできないボクが、

 今の自分を自ら律して、作り上げたはずがない、ということです。



 親が子に残してあげられる最高の財産とはなんだったでしょう。



 ボクは、知らず知らずのうちにいい習慣を身につけさせてもらったわけです。

 ちょっと照れくさいのでついでに言っておきますと、ボクは親に感謝しています。

 理屈ではそうなるので、感謝せねばなるまい。と、思っていた時期もありました。

 本当の自分を認めきれてなかったころですね。

 感謝するというのは、非常にいいことでして、

 また、これは、素直にならなければできない。

 という、たいへん順序だった法則があるんです。



 感謝すべきであろうと思っても、感謝できるものじゃないんですね。

 素直にありのままを認めることができたとき、感謝できるんです。

 認める、ここでは、特に親の色を認めるということになります。

 一般的な言い方に換えますと、親の苦労を知るということになりますか。



 自分では好ましくないと思っている部分があるとします。

 それを好んで身につけたはずがないんですね。

 知らず知らずに身につけてしまっているわけです。

 それが環境であり、親の色なんです。

 ここで、そうか!と、

 止まってしまっては根、を恨んだり、時代を恨んで終わりです。

 いま一歩、土の中に潜む、根をのぞいてみましょう。



 簡単なことなんです。

 親も好き好んでその色を身につけたんではないということです。

 親についた色の原因がハッキリと観えたとき、親を恨むことを忘れます。

 それまで好ましく思えないために認められずに繕って生きていたものが、

 これが自分なんだ、これがあるからこそ自分なんだと、

 認めることができるようになるんですね。

 すると、不思議なもので、

 そんな色を持った自分がいとおしく思えてくるんです。



 繕うことにエネルギーを使う必要がなくなりますから、ゆとりが生まれます。

 世の中がよりクリーンに見えてきます。

 自分自身はまったく変わっていないのに、世の中がガラリと変わって見えてくるんです。

 世界一の不幸者だと思っていた者が、

 世界一の幸せ者だと思えてくるというのですから、

 コノ変化は大きいと言わざるを得ませんね。



 どうも、幸せというのは、

 他人を恨んで、その償いを求めているような人には

 近づきたがらないという性格を持っているようです。




 歴史のお勉強

 『マディソン郡の橋』という映画が日本で流行ったのは1995年だったでしょうか。

 内容を漏れ聞いておりましたので、

 ボクは、あまり積極的に見たいとは思わなかったんです。

 ところが、イイ!という人がまわりにチラホラいたもんですから、

 少し遅れて、見に行ったような記憶があるんです。

 そんなわけで、ボクが見たのは96年のようです。



 根底にあるテーマはなかなかいいものだと感じたんですが、

 画面を追っているだけでは、ちょっと、誤解を招くんじゃないかな。

 というのが、ボクの感想でした。

 そして、誤解を招いたからこそ、

 世間の評判がボクの足をなかなか映画館に向かわせなかったんだな、と考えるわけです。



 なんだか抽象的な話ですが、具体的にはこうです。

 この物語は、厳格に生きた婦人が、

 先立たれた夫にも明かさなかった若き日の4日間だけの浮気を、

 子供にだけは伝えておきたい。と、文章に残して息を引き取り、

 子供たち(兄妹で2人とも家庭を持っている)が、

 それを見つけるというところから始まるんです。



 読み進むにつれ、娘の方は、

 立派な母親であろうと苦しんでいた自分の束縛から逃れることができ、

 人生に真正面から立ち向かう自然な勇気を得るんです。

 息子の方は、やはり男ですからショックなんですね。

 酒を飲んじゃうんです。

 それでも、何とか母親としてでなく、

 一人の女性としてとらえることができるようになるんですね。

 そして、それを認めることで、今まで自分にとって重荷にしか思えなかった

 家庭というものを大切にしたい、と思うようになるんです。



 親は、子供に自分たちの歴史を語るべきである。

 夫婦間に隠し事があったんでは、

 その歴史にウソができ、子供の成長を歪めかねない。

 このテーマはこんなところだろうと思うんですね。

 ところが、この映画の主人公は

 若き日の婦人と、その浮気相手なんです。

 それが美しく描かれているんですから、わぁステキ!

 などと、浮ついた気分にさせかねないんですね。

 大切なことは、真実を告げた。ということなんです。

 その内容が美しいかどうかではないんですね。



 1996年の暮れに『秘密と嘘』というイギリス映画が公開されています。

 この物語は、若かったころに少しばかりガードが甘かった母親と、

 うまくいっていない娘とが2人で暮らしているのですが、

 そこへ、もう1人の娘が現れる、という展開です。

 この娘は、母親が産み落としてすぐ、

 顔も見ずに里子に出した子でお姉さんということになります。

 もう立派な社会人になっていまして、電話をかけてきたんですね。

 当然、母親は娘(妹)には内緒で会いに行きます。

 ところがこの娘(姉)は黒人なんです。

 白人である母親は「まさか」と笑い飛ばすんですが、

 心当たりがあるもんですから、真顔になります。



 娘(妹)には黙ってチョクチョク会うようになるわけですが、

 内々のパーティに友人として招待するんです。

 友人で通すつもりでいたんですが、

 本当は娘なの。と、泣きながら告白しちゃうんです。

 娘(妹)は飛び出しちゃうんですけど、

 彼氏に諭されて現実に向き合う勇気を持ちます。



 エンディングは、母娘3人でのどかな休日の午後を過ごす、といった風景です。

 そして、姉妹が笑いながら言います。

「私たちが姉妹だなんて、誰も信じてくれないわよね」

「いいじゃない。本当のことなんだから」

「そうよね。本当のことを話したらいいのよね」



 ボクは、この2つの映画から、

 やはり人類は気づき始めているんだなぁ。と、うれしくなっていたんですが、

 1997年の日本の話題作は『失楽園』なんですね。

 ボクが『マディソン郡の橋』でいだいた危惧は、杞憂とはなってくれなかったようです。

 これは、やはり、

 自国の歴史を歪めて教えている当然の結果なんでしょうね。



 自分の色を知るために親の歴史を知る。

 親の歴史を正確に知るために、その時代背景を知る。

 そして、時代を遡ることによって、民族の色を知り、

 さらに人類の歴史を学ぶことで人間というものの色を知る。

 このようにして自分というものを自覚していくための作業が歴史の勉強なんです。



 ずう〜〜〜と前に、学問は自覚するためのものだ。と、

 書いたのを思い出していただけたでしょうか。

 そして、むかしは学問を哲学といった。

 今では自分のところに戻ってくるものだけを哲学といっている、と。



 歴史の勉強も、哲学にしなくてはいけないんです。

 歴史を学ぶことによって、

 人間として、ある民族として、

 そして、個人としての自分の色を知ることにより自分を認める。

 すなわち、自覚するということです。



 なんだか、堅くなってしまいました。




 数学のお勉強

 どうでしょう。

 ついでですので、数学の勉強についても考えてみましょうか。

 人は、生きておりますので方向性(いきおい)があります。

 なにかに失敗したとしましても、

 成功するつもりでやっていますので、

 成功するつもりという方向性を残したまま振り返りがちですね。

 こういった場合、当然、自分に落ち度などはなく、周りのセイにします。

 ボク自身が言い訳ばかりを考えて生きているような人間ですから

 断言できるんですが、

 必ず他人のセイにします。

 そういう相手が見つからなければ、人でなくてもいいんです。

 雨が降ったからとか、風が吹いたからとか、犬が吠えたからとか、

 恐ろしいほどの執念で、言い訳の素を探してきます。

 ネツゾウすると言った方がいいかもしれませんね。

 このエネルギーはタイヘンなものです。

 それが方向性です。



 ここで、反省という言葉を思い出していただきます。

 反省をする場合、

 そのときの感情を引きずらないということが大切でしたね。

 冷静になる、ということです。

 方向性を捨てる、ということです。

 執着から離れる、ということです。



 数学というのは、どういったものでしたでしょうか。

 いろいろな公式を用いて答えを導きだすわけです。

 きまりがあるんですね。

 こういうときはこうなる、という。



 世の中も同じです。



 吉田松陰さんの辞世の句でしたでしょうか。


かくすれば かくなるものと知りながら やむにやまれぬ大和魂


 このように、こういうことをしたら、こういう結果になる。

 ということは決まっておりまして、

 だいたいそのことも分かっているんですね。

 ただ、我々は松陰さんのように覚悟の上でやる。

 というふうには、なかなかいかないわけです。

 希望的観測が入っちゃうんですね。

 寄生虫ですから。



 ここのところがなかなか自覚できないのは、

 スジの通らないことでもダダをこねて許されてきた。という

 幼児期の体験が寄生虫の体質に合った【甘え】というものを

 増幅させてしまうからなんでしょうね。

 いいしつけがなされなかったから、という言い方もできそうです。



 なかなか数学の話になりませんが、こういうことです。

 方向性(いきおい)にトドメを刺すには、公式を受け入れるという姿勢が必要になります。

 ああすればこうなる、

 ハズなのに、自分の場合はならなかった。けしからん!と、

 ここで方向性を助長させてはいけないんです。

 ああしたのに、こうならなかった。ということは、

 ああしたつもりが、それにXが加わっていたということなんまです。

 そんなハズはない。ではなく、そうなんです。

 ですから結果が『こうなるプラスX』になってしまったんですね。

 人間というものは、自分に少しでも関わりがありますと、

 なかなか冷静にはなれません。

 どうしてもXやYが入ります。

 感情を持ち越したままでは、永久にそれに気づけません。

 そこで、誰にも関係のない記号でもって公式というものがあることを悟らしめ、

 その公式に当てはめることによってXの部分を探り当てる。

 という、訓練をしているんです。



 1プラス1が1になった。という事実を認めてしまいますと、

 自分が1+1のつもりでやったことが、

 ジツは1+1−1だったとか、

 (1+1)÷2だった、ということに気づくんです。

 おもしろいことに、自分の行動を常に分析しておりますと、クセが見えてきます。

 −1なのか÷2なのかもハッキリと分かるんです。



 こうした考え方を身につけるのが、数学の勉強なんです。




 これからの流れ

 流れからいきますと、

 ここで、各分野に分かれた学問を、ひとつひとつ取り上げるべきかもしれませんが、

 そうは、ならないんですね。

 ボクのクセです。

 メンドウになっちゃうんですね。

 そこで、こんなふうに片付けちゃうんです。



 どの分野の学問であっても、それは自覚するためのものなんです。

 学問というものは、身にまとって、ひけらかすものではないんですね。

 身に振り返るところまで掘り下げるべきものなんです。

 哲学にすべきなんです。



 人類は、かなりの分野に学問を分類してきました。

 これも通るべき道であったとボクは考えるんです。

 ただ、今後もそれをさらに細かく切り刻んでいけばいいというものではないんです。

 そろそろ、この分かれてしまったものを連携させ合い、

 総合的に見つめ直すという工程に入ってもいいのではないか。

 ボクは、そんなふうに思っています。

 考古学の世界では、かなり総合的な学問になりつつあるようですね。

 自覚することを目的にしていなくても、

 ルーツを探るということが、すなわちそういうことなんです。



 分かれてしまったものというのは、学問だけではありませんね。

 言語・民族・宗教なども同じです。



 統一しよう、という話ではないんです。

 いろいろな色を出し合うことで、より正確に自分たちを見つめ直すことができるのです。

 そして、それぞれの色の違いを認め合うことができれば、

 一色になってしまうより、楽しいと思うんですが、いかがでしょう。



 宗教も、かなり分かれました。

 争いも繰り返してきました。

 しかし、これもお互いの持つ宗教的伝統の始まりを

 理解し合えば、分かり合えることなんです。

 それぞれが、気候の違う地域で集団をつくって暮らしてきたのです。

 モノのとらえ方が違って当然なんですね。

 それを、いや違う。それはこうだ。と、

 言い争うこと自体、無意味なことなんです。

 出所が違うんですから。



 そういった違ったものを統一するなんてことは土台ムリな話なんです。

 前にも少し触れましたが、

 宗教というものは、根ッコをある部分から見たものなんです。

 宗教そのものは最初からズレがあるんです。

 ただし、それぞれの掲げるものが、

 全て根ッコの一部なんですから、共通項があるはずですね。

 そろそろ、違う部分を指摘し合うことは、やめにして、

 共通項を見つけだすことで

 根ッコの全容を現すという作業に取り掛かってはどうでしょうか。



 さいわい、この世紀末を迎えた昨今、

 口先だけは共生共存などと叫ぶ人々が出てきております。



 科学進歩のおかげで、地球の外に出ることもできるようになってきました。

 そこで、

 外に出ない我々も、そろそろ気づかなければいけないことがあります。

 地球の外に出る人々が、

 どれだけの装備をつけて地球に似た環境を維持しているのか、ということです。



 我々は地球に寄生していなければ生きられないのです。

 最初の問いかけでもある科学の使い道というのは、

 自分たちは寄生虫なんだ。という着想のもとで、考えなくてはならないんです。

 間違っても、科学を利用すれば寄生虫から脱却できるんじゃないか、

 などという期待をしてはならないのです。



 食物を作るのは農業でした。

 いつのころからか、それは工業になり、

 今では、科学が食物を作るようになってきました。

 科学の進歩により、

 いろいろな栄養素を個別にとることができるようになっているようです。

 しかも、ダイレクトに。



 心配性のボクは、このことを非常に不安に感じています。

 何千年かすると、農業から作った食物からでは

 栄養を吸収することのできない人間が現れるんじゃないか。

 ビタミンだとか、カルシウムだとかを

 直接投与しなければ生きられない人間が現れるんじゃないか。

 そんなことを今から心配しているのです。



 他の生き物を殺さずに生きながらえるようになったとして、

 胃袋や腸の退化したスマートな人間が生まれたとします。

 しかし、ボクはそれを進化だとは呼びたくない。

 自分の力でエネルギーに代えられるのが生きものなんです。



 寄生虫であるということと、

 地球の寄生虫でなくてはならないということとはイコールではないかもしれません。

 地球のほかに寄生できる天体を見つけるという努力は

 必ずしも間違いでは無いのかもしれません。



 ボクは、人類が情熱にかられて進めてきたことは、

 やはり、それなりに意義がある。

 いや、もっと単純に、必要から生まれると考えています。

 そして、今、人類は、

 分限をわきまえない発言ではありますが、

 地球を救え!などと言い出しているのです。

 かなりの回り道をしたのかもしれませんが、

 我々の歩んできた道は大まかなところでは間違っていなかったんではないか。

 方向性は、間違っていなかったんじゃないか。

 ボクは、そんなふうに考えています。



 ただし、忘れてはいけないことがひとつあります。

 この方向性を維持できたのは、人類が持つ頭脳ではなく、

 生きものである我々の中にある生命のエネルギーが、突き動かして来たのだ。

 ということです。





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